藻類デスモデスムス属

友だちのうちはどこ?の藻類デスモデスムス属のレビュー・感想・評価

友だちのうちはどこ?(1987年製作の映画)
5.0
『ちょうど半分というところで』


はっ、とした。そうだった。こどものとき、ここが半分というところがあった。ここがそうと、たぶん決めていた。そしてそれが、なんだか大切なことだった。会社までの道でいま、あのあたりが半分、というところはすぐに指し示すことができる。でも意味がない。大人がこんなにも、こんなことを書けるのだろうかと思った。『思い出すことができない』ことを致命的だと感じている。そうであるということまでは分かっていたが、それがどういうことかまでは分かっていなかった。

『記憶を通して過去の出来事を呼び起こそうとするとする場合、われわれは現在から離れて過去の在る時点に自分自身を置きなおすという独自なことをしているのに気がつく。それは手探りで行なう仕事であり、手動による《写真機の焦点合わせにも似ている》。』

この説明は腑に落ちるところがあって、自分はその手探りの仕事を怠り、現在の位置に立ったまま、過去の経験をみようとしている、という感じがする。そしてその経験の多くは潜ったままである。いうなればヒット数の少ないネット検索とまとめ記事のようなもので、感覚を呼び起こすようなリアリティを伴わず、『イメージ全体としての世界を地平として過去の諸事実を立ちあらわれさせる記憶』とは到底いいがたい。おもしろくない。

そうだった、と思った。こんな風に走っていた。走る姿から、こんな風に、を思い出す。小さな体でこれだけ走ることできる。すごいよなあ。走るという行為は、その目的をこえて、世界への「こうしてほしい」「こうしたい」だった。世界への、あるいは大人への、もどかしさやおそれも、それへの対処も、まだまだ未分化のまま身体とあった。一大事じゃないことはなかった。大人は子どもの言うこと(言い分)を聞かなかったが、監督へのインタビュー記事に「(子どもと大人の)二つの世界を描きたかった」といったことが書かれていて、批判ではないことに信頼した。聞かなかったというよりも、二つの世界。子どものまなざしの先には、言葉になる前の深みのところが表出しているようだった。男の子が去って、大人にカメラを残すとき、画面はもう少し直截的な感じがした。

共通感覚論によれば、想起的記憶は〈語り〉としてとらえることができて、『ちょうど或る友人の肖像がその友人という人間を表しているように、語りは過去の行動を表現している。とはいえ、語りが喚起するのは、過去の行為そのものではなくて、行為が生み出された状況である。それゆえこの語りによって、行為に直接関わらずその場に居なかった他人でも、まるでそこにいたかのように反応できるようになる。』

ある感覚が契機となって、例えば空気の配合によって、在る時点を思い出すことがある。その時、過去に自分自身を置きなおし、『イメージ全体としての世界を地平として』経験しているのだろうが、それはみるとかいった知覚そのものではなく、知覚のあとに続く感覚(誤解していなければ共通感覚)としてあらわれてくる。そして、すぐれた〈語り〉によっても、それはもたらされるのだということを知った。みおわって、生まれる前の映画がこれほど「古くない」ことに驚いたのも偶然ではなかったのだろう。

『上手に思ひ出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向つて飴の様に延びた時間と言ふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思へる。』



最初:ここはとても速い川/井戸川射子
途中:共通感覚論/中村雄二郎
最後:無常といふ事/小林秀雄