Habby中野

熊は、いない/ノー・ベアーズのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

映画にカメラは登場するか?多くの場合は登場しない。なのにこの映画には「監督」の持つスチルカメラしか映らない(パソコン内蔵の小さなレンズも見えやしない)ことに異常さを感じる。冒頭の長回しカット風長回しカット(こんな言い回しあるのか)からシームレスにモニター─モニター前の監督へとつながる長回し風カットがきれいに象徴するように、カメラ─スクリーン─鑑賞者が同化している。カメラはなく、映されたものと映しているものだけがある。
一方で、現実を落とし込んだ、台本や指示のあるドキュメンタリー映画とそれを撮ることを撮ったこの映画がある。さらにはドキュメンタリー内をトレースしたように、国外逃亡を図る男女が、これらの二重映画の狭間に映される。ノンフィクションとフィクションの重なり、そしてどちらにも訪れる死。この死はなにか。そこに逃れる場所はない、現実だと言って身震いすることも、虚構だと安心することもない。現実はこの狭間に囚えられた。そしてこの状況は村の儀礼を前にして自らの誓いを撮影する「監督」のカメラの存在感によってさらにトレースされる。そのカメラを我々は見て、(なんだか急に突き放されたような)自己の外在化と、その後の撮影の中断による再びの接着をあくまで重力的に運動する。
シームレスに同化された映画と鑑賞者、そこに反動的に意識せざるを得ない、ボーダー。対岸は見え、地は海は続いているのに、目には見えない国境。目に見えるのに驚くほどの数に越境される家の敷居。交信にしか使えない窓。熊は、いない。いるのは人の産み出すカルマの霊か、いやきっとそうでもない。
この映画に映り、またこの映画を撮った「監督」の隣にいたのは、たぶんカメラじゃなく我々だった。
Habby中野

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