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大いなる運動
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大いなる運動の作品紹介

大いなる運動のあらすじ

標高3,600メートルに位置するボリビアの首都ラパス。1週間をかけてこの街にやって来た若い鉱山夫が謎の病に冒される。薬草や呪いで青年を癒そうとする医者たち。青年の悪夢は都市と混濁し、観客もその超自然的な意識に幻惑される。

大いなる運動の監督

キロ・ルッソ

原題
El Gran Movimiento/The Great Movement
製作年
2021年
製作国
ボリビアカタールフランススイスイギリス
上映時間
85分
ジャンル
ドラマ

『大いなる運動』に投稿された感想・評価

sonozy
3.5
ボリビアのkiro Russo/キロ・ルッソ脚本/監督作。
ベネチア国際映画祭: 特別審査員賞
鉱山労働者の若者エルダー(ジャケ写)は仲間2人と、大量失業に抗議するデモに参加するため1週間も歩いて首都ラパスにやってくる。
体調を崩した彼が体験する不思議な数日間と、ラパスの街の『The Great Movement(≒ 巨大な都市活動?)』

冒頭は、ラパスの街並み、交通渋滞、ロープウェイ、絡んだ電線、落書きだらけの壁などを環境音と共にスローズーム&パンで捉える。

デモに参加するエルダーと仲間2人。その後3人で市場を歩くが、エルダーは疲労や石炭粉塵による肺疾患で、咳き込み、坂道を登るのもやっとの衰弱状態に。
ロープウェイに乗り、眼下の家並みで貧富の格差を見せながら、小さな病院へ行き、注射を打ってもらう。

体調の悪いまま街頭テレビを見たり、ディスコで踊ったりしたのち、路上で寝ていると老婆が現れ、彼の状況を聞く。
この老婆 ママ・パンチャはエルダーを名付け子だと言うが、エルダーにとっては見知らぬおばちゃんのようだ。
翌日、老婆が仕事の手配師に3人に仕事を与えてくれと頼んでくれ、3人は市場での荷物運びの仕事を得る。
体調の悪いエルダーは2人からどやされながら、朝暗いうちからの重労働をこなすものの、手配師からは僅かな金しかもらえず体調もさらに悪化。

寝込んだエルダーに、ママ・パンチャは、山の上で野宿生活している(なので相当薄汚い)マックスという呪術師らしき男を呼ぶ。。。

ユニークなのが、ひと仕事終えたまだ暗い早朝の市場で唐突に始まる80年代風ダンスチューンに乗せての、市場のおばちゃんたち、エルダーと仲間、マックスまで踊りだすダンスシーン。この狙いはよく分かりません(笑)。
夜の闇の白い犬(マックスの擬態or分身なのか?)も印象的。

そして英題『The Great Movement(≒ 巨大な活動?)』につながりそうな、死んだように寝ているエルダーの口の中に入っていく風シーンから展開される、不協和サウンドと、炭鉱やラパスの街の人々の活動を捉えた次第にハイスピード化していく映像コラージュ。
4.7
【ボリビア、大都市での停滞、そして腐食】
第78回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門にて審査員特別賞を獲ったボリビア映画を観た。ボリビア・ラパス出身のKiro Russo監督は長編デビュー作『Viejo calavera』に引き続き鉱夫を主人公にした物語を紡いだ。これがユニークな傑作であった。

ボリビアの歴史は鉱山と共に歩んだといっても過言ではない。世界遺産にもなっているポトシ銀山は、かつて石見銀山と並ぶ銀の産地であり、世界経済を回していた。ポトシ銀山では水銀アマルガム法を用いて銀を抽出していた。そこで働く労働者は水銀中毒になったり、粉じんの吸引してしまい多くの者が命を落とした。また、鉱山労働者は奴隷のように働かされた。つまりボリビアの資源による発展の歴史は血と涙でできているのである。

『El gran movimiento』では、そんな鉱山の負の歴史を纏っている。フィルムの粗さが茹だるように暑いボリビアの街を捉えていく。街の中心では、鉱山労働者がデモを行なっている。この地に若者エルダーがやってくる。鉱夫として復職するため、都市にやってきた。しかし、彼は都会の熱気に打ちのめされて気分が悪そうだ。なんとか市場で木箱を運ぶ仕事を斡旋してもらうが、あまり体調が良くないように見える。酒が彼の痛みを和らげている。そんな中、山から浮浪者のような男マックスが降りてくる。市場の人は、「お前のことはもう信用できない。」とあしらう。彼の正体は呪術師であり、エルダーの病を治そうとする。

本作は、都市によって時間が融解し朽ち果てていく様子が描かれている。鉱夫として病を抱えているエルダーは大都市で夢を掴もうとするが、暑苦しい激流に呑まれてしまう。マックスは、大都市によって消耗したエルダーの将来を象徴しているように見える。若さを失い、用済みとして社会から拒絶される痛みがマックスにあるのだ。

マックスがエルダーを救うことは、自分を救うことでもある。終盤、走馬灯のようにフラッシュバックする大都市の記憶に泣けてくるのは、停滞したエルダーの刻に感傷的になるからであろう。過酷な労働で発展の使い捨てとして扱われる存在、都市で消耗して人生を終える存在。社会はこれらの存在による血と涙の結晶でできているとKiro Russo監督は物語っているのである。

さて、もう一つ印象的な場面について語るとしよう。それは、街の中でいろんな人が踊る場面である。日本のアニメでは世界観を表現するため、オープニング映像で様々な登場人物が踊りがちだが、同様のことをこの作品は行なっている。ボリビアの顔を表現するように、横に並んで踊る場面は印象的であった。
河
3.8
仕事を見つけるため、鉱山労働者の失業デモと共に7日間歩き続けラパスに到着したエルダー達。しかし、エルダーは鉱山で働いていた時に粉塵を大量に吸い込んでいたのが原因か、高度の高いラパスの気候、気圧により肺病の様な状態となる。エルダーは坂を登ることがまず困難になり、仕事である市場での食物の運搬もまともにこなすことができない。運搬はラパスで唯一得ることのできる仕事であり、アンデス山脈に位置するラパスにおいて基本的な移動は上下動である。つまり、エルダーは到着時点からラパスで生きていくことが根本的にできない状態である。それは、ラパスがエドガーを拒絶しているようにも、エドガーの身体がラパスを拒絶しているようにも見える。エドガーはラパスという都市と相容れない存在となっている。

そして、エドガーに対して二人の医師が登場する。一人は現代医学に基礎を置く病院の医師であり、もう一人は山で暮らしそこで作った薬草を人々に与えるマックスである。マックスはラパスの先住民のような存在であるが、都市に流入してきた人々からすれば近代化から遅れた存在である。マックスの処置を受けるのはエドガーの名付け親を含め、老人ばかりである。病院の医師はエドガーの病気の原因を心理的なもの、ストレスによるものだと推測する。それに対して、マックスは占いによってエドガーにラパスを崩壊させる悪魔がついてしまったと判断する。病院によっても症状が回復しなかったエドガーはマックスによる悪魔祓いの儀式を受けることとなる。

ここで、マックスには聳え立つ山、建物、山からの登り降りなど、明確に縦向きの構図、上下の動きが当てられている。それに対して、冒頭のラパスを移した印象的なショット群は全て横向きの構図によるものだ。そして、山に元から住んでいただろうマックスに対して対比される流入してきた人々の動きは、金銭と野菜の受け渡し、ベルトコンベアによる挽肉や金属の生産など、全て横向きの運動となっている。マックスの住む場所、つまりアンデス山脈の一部、自然としてのラパスは、エドガー達を含む新しく流入してきた、そしてこれからも流入し続けるだろう人々、それと共に流れ込んできた市場原理、工場生産によって狭められていることが、マックスの暮らす山を映すショットに必ず住居やビルが入り込むことによって実感させられる。また、マックスの住む山はロープウェイによって都市と繋げられており、ヘリコプターの音が響き渡っている。

マックスの恐れるラパスを崩壊させる悪魔は、ラパスに流入してきた都市、そこにさらに流入してくる人を含めた近代的な全てである。エドガーは名付け親がマックスと親しいように、いわば都市としてのラパスよりもマックスの住む自然としてのラパスに近い存在である。それはマックスがエドガーを白い野犬に幻視するシーンでも明らかだ。だからこそ、エドガーは都市としてのラパスに適合できず、それを体内に悪魔として宿してしまう。名付け親の友人が都市に殺されたと語られていることからも、マックスや名付け親に近い人々が都市と相容れない存在、排除される存在であることがわかる。

冒頭のラパスを映したショットに象徴されるように、都市としてのラパスはこの映画ではまるで不気味な生き物のように映される。(ここで、歪曲したガラスへの反射により車の直線移動が不気味な動きとなるショットは、同じく不気味な都市の変容を捉えたツァイ・ミンリャン『The Skywalk Is Gone』と共通する) マックス含めた自然としてのラパスに生きる人々もまた、別個の生き物として不気味なオーラを纏って捉えられる。それに対して、都市に住む人々は非常に淡白で均一的に撮られる。無機物であるはずの都市が生き物のように撮られるのに対して、そこに生きる人々は無機物のように撮られている。

そしてクライマックス、カメラはエドガーの口を通して侵入し、そこに巣食う悪魔を映し出す。そこで映されるのは高速でモンタージュされた機械のように、金銭のやり取り、歩行、運搬など、同じ横移動を繰り返す都市の人々の姿だ。都市に住む人々とその活動は都市という悪魔のような生き物を構成する仕組みのようになってしまっている。タイトルの大いなる運動とは、人々が織りなす横移動、それを総体とした都市の生き物のような運動を指すのだろう。

ロバート・J・フラハティに『Twenty-Four-Dollar Island』という、24ドル相当の物物交換で得られた土地が今のニューヨークとして大都市となったという内容の、ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』やヴァルター・ルットマン『伯林』、ヨリス・イヴェンス『雨』と同じくcity-symphonyというドキュメンタリーとフィクションの中間のようなジャンルに分類される短編がある。この短編では、24ドル規模しかなかったものが今の大都市であるニューヨークへとむくむくと育ったかのように、都市が一つの生き物のように撮られている。『大いなる運動』における都市の不気味な映像的感触は、前述のツァイ・ミンリャンだけでなくこの作品とも非常に近いものとなっている。