Kinako

ゴジラ-1.0のKinakoのレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
4.9
日本が世界に誇る怪獣「ゴジラ」生誕70周年記念作品。『ALWAYS 三丁目の夕日』や『永遠の0』等を手掛けた山崎貴監督が旬まっさかりの俳優、神木隆之介と浜辺美波を主演に迎えた意欲作!戦後全てを失った日本は、絶望(ゴジラ)に勝てるのか…。

 このレビューで物語の核心には触れませんが、劇中の小ネタや演出を深く掘り下げますので、予告以外の一切の前情報を遮断して鑑賞したい方は今すぐ劇場に足を運んでください!

 では……

 私は『シン・ゴジラ』の鑑賞時、面白い大傑作だとは思いましたが、どうしてもフルCGのゴジラだとなんかゲームの映像みたいで実写感が出ないよなぁ…と内心思っていました。これなら特撮の足りない部分をCGで補っていた頃の方が実物のわけだからよっぽどリアルだったよなぁ、日本はそれを伸ばせばいいのに…と。

 それから7年!日本のCG技術は進歩し、ゴジラのリアルさが格段にグレードアップされています。本作のゴジラは、現ハリウッド版のゴジラよりもCG技術が上だと断言出来ます。どちらが良いという訳ではなく、生物的な質感が明らかに本作は別格です。個人的には、まだ着ぐるみのゴジラが恋しいですが…。

 そしてキャスト陣の凄さ!制作費の大半がそこにかけられてるのでは?と思う程、豪華な役者陣です。そして主演の神木君と浜辺さんは、今年のNHKの連続テレビ小説『らんまん』でも夫婦役でしたが、撮影はゴジラが先だった様です。つまり本作が公開される前に主演の二人は、幅広い年齢層に顔がより広く浸透した状態に進化していたのです。映画の神の采配でしょうか。

 1954年の第1作目『ゴジラ』公開当時、序盤の大戸島の山からゴジラがヌゥッと顔を出すシーンで、観客は前の席からまるでドミノ倒しの様に仰反るほどの反応だったといいます。このゴジラが初めて姿を晒すシーンは映画史に残るカットです。

 そして本作『ゴジラ−1.0』で私は、確かにその体験をする事ができました。冒頭でゴジラが暗闇からガァッと現れた時、私は自然と身構え、仰け反りました。幼少期からのゴジラファンの私が、初めてゴジラを見た当時の観客と同じ恐怖を味わったのです。掴みのこのシーンだけで「日本映画の歴史がまた変わる」と確信しました。

 ですが喜んでばかりはおられません。何故ならゴジラの復活は、劇中の登場人物だけではなく我々観客にとっても「緊急事態」であるからです。私は怪獣映画は時代を映す鏡だと考えています。第1作目のゴジラは、公開年の1954年3月に起こった第五福竜丸事件が元になったと言われています。

 これはマーシャル諸島に位置する島「ビキニ環礁」でアメリカが水爆実験を行い、罪の無い日本の漁船員が操業中に大量の放射能を含んだサンゴ片を浴びた事で被爆したという、痛ましい事件です。太平洋戦争唯一の被爆国として、核の恐怖をリアリティを持って世に伝えると決めた製作陣は、批判をもろともせず、この事件を怪獣映画のアイデアに盛り込む事にしました。

 そして同年11月に「水爆によって誕生した怪獣が人類を襲う」という設定の初代『ゴジラ』が公開されたのです。戦争の影がまだ色濃く残る当時ならではの作風といえるでしょう。1962年に公開された『キングコング対ゴジラ』では、高度経済成長の真っ最中という事もあり、視聴率稼ぎの為に怪獣すらも利用する宣伝部長を登場させ、経済優先思考の行き過ぎを皮肉していました。

 『キングコング対ゴジラ』を機に怪獣対決が定着したゴジラシリーズは、その後も公害怪獣ヘドラや遺伝子組換えによって生まれたビオランテといった敵怪獣が登場する等、扱われる社会問題も当時の時代背景と共に変化していきました。中には現代にも通ずるテーマの作品もありますが…。

 そして2023年の今に公開された『ゴジラ-1.0』のテーマは何か。まず今回のゴジラについて山崎貴監督は「祟り神」であると語っています。基本的にゴジラが誕生した経緯は劇中の人物によって明らかにされますが、「ゴジラが人類の脅威となる理由」についてはいつも観客の解釈に委ねられます。ゴジラに直接尋ねた事例は今の所無いですから。

 ゴジラが恐竜ではなく、人災によって生まれた怪獣だからこそ、人間を襲う描写には考察の余地が生まれるのです。個人的にゴジラの定義としては、山崎貴監督のいう「祟り神」の表現が一番しっくりくる気がします。本作にはそれを裏付けるかの様に、海に潜んでいたゴジラが人間の核実験による熱を受け、明らかに怒っているかの様なシーンがあります。

 さらに驚いたのが今回のゴジラは闇雲に怪獣らしくただ街を破壊するのではなく、明確に人類を攻撃対象として、ギロリと睨みつけるのです。そして人間を口で掴んだかと思えば、食べずに床に叩きつける。この描写が怖かった。餌として人間を狩っていないから余計に怖い。人間に裁きを下す巨大な何か…つまり「祟り神」としかいいようがありません。これぞ「ゴジラ」です。

 さて、そこで問題なのが「祟り神」としてのゴジラが劇場公開されているという事実です。怪獣映画は時代を映す鏡。本作が訴えている「核の脅威」と「放射能汚染の危険性」は、1954年の第一作目と同じテーマです。70年前に警鐘乱打されていたメッセージを未だにタイムリーな問題として受け取れてしまう現代社会の危うさが伝わってきます。

 劇中の人類がこの「祟り神」であるゴジラに裁かれているシーンは、全く他人事では無いという事です。現実にゴジラと同じ様な殺傷能力を持つ核兵器がごまんとあるんですから。30年以内に約70%の確立で日本で大地震が起こるとも言われています。なんとか一人一人が何かしらの対策をしなくてはなりません。誰もがゴジラの被害を受けない様に。

 本作の鑑賞もその対策の一つです。何故なら、人類が未だに直面している社会問題を知る事が出来るからです。そしてゴジラという災厄の中にあっても、生きる為に抗い続ける人々に勇気をもらえます。実は本作の伝えたい事がそれなのです。

 物語の主人公・敷島(神木隆之介)は、特攻の役目を担っていましたが、訳あって生還した帰還兵です。灰燼にきした日本へ生きて帰って来た敷島に対して、周囲は喜ぶどころか「意気地なし」扱いし、敗戦した恨みの矛先にするのです。

 「戦後、日本。無(ゼロ)から負(マイナス)へ。」との宣伝文句からして、私はこの段階からゴジラが登場し、周囲から差別されていた敷島がゴジラの脅威から日本を守る過程を描く物語になると思っていました。しかしゴジラが本格的に上陸するのはこの場面ではありません。

 まず前提として本作の主人公は、戦争の傷が癒えず、生きて帰ってきても周囲から特攻を免れた事を理由に冷たい目で見られる辛い状況にあります。加えて、過去にゴジラに襲われた際、仲間を救えなかった罪悪感まで背負っています。スタートからこの状態です。
 
 ゴジラが日本に初上陸する場面は、まるで製作陣が主人公に最も絶望的な状況を与える為、あえて上陸時期をこのタイミングに選んでいたかの様です。主人公と共に観客も絶望します。この段階で帰る人もいるかもしれません。私もここまでの絶望が主人公を襲うとは思っていなかったので、ガッカリしましたが、観終わった今では物語的に大正解の展開だったと納得しています。

 本作は、先述した「生きる為に抗う登場人物に勇気を貰える」以外にも、「当たり前の日常の奇跡」というものを我々に思い出させてくれます。山崎貴監督は、どういうストーリーを作って、どう演出をすれば、観客にその感動を味わってもらえるかを熟知している人だと思いました。そしてその奇跡にまず気づく事こそが、危うさを抱える社会に生きる現代人にとって、一番必要な事なのだと教えられた気がします。

 題材にゴジラを選んだ理由も、ただ現代人に「核の問題」を再認識させるだけでなく、緊急事態になった際に人類は何を大切にすべきなのか、また対策として普段の生活から何を見出せばいいのかを本作は伝えています。ラストの衝撃は今も忘れる事が出来ません。

 また、有名なメインテーマもアレンジ等の手を加えず、ここぞという場面でそのまま流してくれたのも嬉しかったです。特にゴジラが街に上陸した所で流れる音楽のタイミングが完璧すぎて、「ゴジラの映画をスクリーンで観てる!!」と感動が止まりませんでした。それと同時にここまで凄い映像表現なら、着ぐるみやミニチュアを使った怪獣映画は制作されなくなるかもなぁ…と寂しい気持ちになりました。

 勿論CGも凄いと思いますが、私は特撮とCGを組み合わせた手法が今でも一番リアルな映像表現だと考えていましたが、フルCGのゴジラも今回ようやく受け入れる事が出来た気がします。ただ今後の映画がフルCGの手法に完全シフトしてしまうのは勿体無いというか寂しい気持ちです。

 とにかく、第一作目の要素を違った形で取り入れつつ、よりグレードアップしたスケールと、警鐘乱打に止まらない踏み込んだメッセージ性を持つ『ゴジラ-1.0』は、映画史に名を残す大傑作だと思います。かつて1954年に初登場したゴジラがその後の日本映画の歴史を変えた様に、世界を取り巻く映画業界全体が本作をきっかけとして新たな次元へと歩武を進めるでしょう。

 家族や友人、恋人などと一緒にぜひ映画館でこの衝撃と感動を堪能してみてください。必ず非日常の世界を体験することができるでしょう。ゴジラの咆哮が劇場に響き渡ります。

 
Kinako

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