ジャン黒糖

ゴジラ-1.0のジャン黒糖のレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
3.3
アメリカで実写邦画史上No.1ヒット、アカデミー賞でも視覚効果賞ノミネートされるなど、興行・評価共に既に輝かしい記録を叩き出している日本が世界に誇る和製ゴジラ最新作。
山崎貴監督による、SNS上でのハリウッドの大物監督やトップスターとの連日嬉しそうな写真などを拝見するとあのゴジラが!あの山崎貴監督が!マジでアメリカで受け入れられているコトが伝わってきて、受賞に向けた期待が否が応でも高まる。

結果として、少なくとも現状日本版ゴジラのなかでは単体作品としては過去1番アメリカで熱が高まっているように見受けられるのはイチゴジラファンとしてめちゃくちゃ嬉しい!
が!『オッペンハイマー』が公開され、『バービー』があやかって原爆モチーフのポスターで大炎上した同年に本作が公開され、アメリカで受け入れられたということ自体には複雑な気持ちもあり。

というか、アメリカでの大成功を抜きにしても、ファンとして日本公開後すぐに鑑賞したときの感想は、「んー、、やっぱり山崎貴監督作品はちょっと苦手かも…」だった。

【物語】
第二次世界大戦末期の1945年、特攻兵として出撃していた敷島は飛行機の故障と偽って着陸した大戸島で、島で昔から伝説として語り継がれている、といわれているゴジラの襲撃に遭う。
その後、帰還兵として東京に帰る敷島は瓦礫だらけの闇市と化した地元の姿に愕然とするが、そこで赤ん坊を抱えた明子と出会う。
戦後間も無く、状況が落ち着くまでは、と明子と赤ん坊を匿う敷島だったが、それから2年後の1947年、再びゴジラが今度は東京の町に現れ…。

【感想】
戦後日本を舞台にゴジラを描く。
そう知ったときから放射能に関する扱いはどうなるのだろう、と気になってはいた。
必ずしもゴジラ=放射能 である必要は勿論ないと、平成ゴジラシリーズのファンである自分としては思うものの、戦後=初代ゴジラより前の時代が舞台となると「なぜ今回のマイゴジは誕生してしまったのか」という出自に当然目がいってしまう。

戦後、それこそ各国は核開発競争に力を注ぎ始め、そのひとつとして1954年3月に起きた、アメリカの水素爆弾実験による第五福竜丸の被爆事件に繋がり、同年11月に公開されたゴジラ一作目もこれに多大な影響を受けた。
その後の昭和/平成/ミレニアムシリーズいずれも各作品、描写の程度にバランスこそあれど基本的には初代ゴジラを基盤に物語は展開されてきた。
『シン・ゴジラ』はほぼ例外的に初代と接続しない独立した作品ではあったけれど、東日本大震災以降の、原発にエネルギー供給を依存してきた日本、を明確に意識した作品であった。

一方、2014年のギャレス・エドワーズ版ゴジラは、天然の放射能が多量にあった太古の生き物の末裔で、1954年の水爆実験もそれは建前の名目で、裏ではゴジラを撃退するための水爆だった、という秘話が描かれ、どんなに造形が良くてもその一点の解釈が解せなかった。


その点、マイゴジはどうだったかといえば、そこに関してはふわっと描かれた印象。

たしかに、ビジュアルは良かった。
有楽町から国会議事堂の距離感どうなってんだ、と気になったところはあるけれど、海での魚雷回収船での戦いは個人的には本作最大にアガった瞬間、銀座襲撃はハリウッド顔負けの迫力ある場面で、やるじゃん日本映画!と感嘆した。

ただ、序盤、もろにジュラシック・パーク感のあったゴジラは、その後アメリカの水爆実験によって巨大化したというが、これが見逃してしまうほど説明に留まっていて、「被爆したゴジラ」がそのあとのストーリーに全然機能してこない。
2016年の『シン・ゴジラ』がまだ記憶に残るいま、たしかに映像としての迫力はある今作の銀座シーンも、放射能のコトを思うとリアリティに欠く。

このように、本作は映画としてのビジュアル、映像は凄いけれど、常に胸に少し引っ掛かりを残してくる。
特に本作のゴジラは、単に主人公ら人間たちの物語を推進させるための装置としてしか機能していないように感じてしまったのは小さく無い残念なポイントだった。

観終わってみれば、戦時中戦えなかった人たちが戦うことを応援する格好に見える映画となっていて、戦争に対するそもそもの批判やゴジラの放射能描写はテーマからすると希薄となり、結果印象としてわざわざ戦後日本を舞台にゴジラを描く必要性も薄くなってしまっていた。
だけでなく、結果後半は、"戦う男たち"を賛辞するような内容に感じ、対するゴジラは単なる"戦う男たち"の乗り越えるべき相手、でしかないように見えた。
一度は戦争で敗れた、戦えなかった男たちが、今度はゴジラ、というか目の前の脅威に立ち向かうことで憂さ晴らすんだ!みたいな。


で、肝心な人間サイドの話も好きにはなれなかった。
特に主人公の敷島。

神木隆之介の熱演ぶりは凄かった。
けど、敷島というキャラはどうしても好きになれなかった。
敷島が受け取った、亡くなった戦友の写真はその後伏線として活かされることもなく終わるし、中盤のゴジラ襲撃にやられて以降、怒りに満ちて塞ぎ込む敷島も単に腫れ物的な、面倒な奴だったし(笑)、なにより、ラストの大博打に向けてかつての戦友に協力仰ぐためにつく嘘の内容が普通に下衆すぎるのは引いたし、塞ぎ込んだ末に肝心の作戦でちょっと単独行動出るのイライラする!笑

吉岡秀隆演じる野田教授も、後半の作戦の中心的存在でした〜というサプライズは、もうちょっと何か必然性が欲しかった。

佐々木蔵之介演じる秋津は…観ている最中に感じたイラつきはいまや通り越して一周回って好きかも。笑
観ている最中はもう喋るセリフひとつひとつが鼻についたけど!!!

あと青木崇高演じる橘。
良い演技をする、とは思うけど、結局彼もゴジラと同じく筋書き上の単なるロールに過ぎず、感動場面も泣かせに来てる演出が鼻についた。
(これは本人の演技は良かった分、飛行機に仕込んだアレ、みたいな伏線の回収が結局説明的過ぎる部分を含めた演出の問題だと思う)

そしてヒロイン、浜辺美波演じる典子や安藤サクラ演じる澄子。
戦後の呆然とするなかをそれでも生きなければならない澄子が敷島にぶつける怒りなど、流石は芸達者な安藤サクラの演技が光る。
銀座で初めてゴジラを目撃した典子が溢す「あれが…ゴジラ…」の表情。

演技は良かった。演技は…。
出てくる女性キャラのロールは戦後が舞台とはいえ、いま描くには前時代的過ぎて『シン・ゴジラ』に比べても退化してしまっているように感じた。


ただでさえ放射能の描写が薄いのに加え、ゴジラ自身が敷島をはじめとする人間模様に対し背景化してしまい、加えて女性キャラの描かれ方は古いと感じる。
この映画が、日本はもとよりアメリカで歴史的快挙を成し遂げているという現状を思うと尚更思いとしては少し複雑。



ただ、これに関しては日本がどうの、よりアメリカ国内におけるゴジラの現在のポジショニングも大きいかなとも思った。
ハリウッド版ゴジラのユニバース映画としての安定的な成功と『シン・ゴジラ』の国内的な成功、これを踏まえて東宝は新しいゴジラとして何を作り、描くべきか。


MCUはフェーズ4以降、目に見えて難航。
MCUに続けとばかりにユニバース化を目指したDCもこの先どうなるかいまだによくわからない。
ユニバーサルによるダークユニバースは『ザ・マミー』の一作で終了。
そんななか、モンスターバースは『ゴジラvsコング』の、特にラストの展開によって続編が作りやすくなった=ユニバースものとして安定して怪獣映画が格段に作りやすくなったと思う。

ただ、これには和製ゴジラを作りにくくしてしまったという弊害もあると思う。
エンタメ方向に振り切ったゴジラは今後もハリウッドが作り続けていくであろう一方で、日本で実写ゴジラ、なかでも自分にとっての黄金比率をもった平成ゴジラのような娯楽作が作りにくくなった。
でもそれは2014年版ギャレゴジが成功したときから薄々思っていたことでもあった。


そして、日本で平成ゴジラのような娯楽作が作りづらくなったと個人的に思うもうひとつの理由は、2016年の『シン・ゴジラ』の国内的な成功によるところが大きい。

ゴジラシリーズは007シリーズ同様、ゴジラに何を求めているかによって作品の比重、思い入れは変わる。
自分にとってのゴジラは、善悪で区分け・一括りにできない、説明のつかなさこそがゴジラの魅力のように思い、娯楽作としての最良のバランスを持ったのが平成ゴジラシリーズだと思う。
(あと単純に自分が幼少期観た最初のゴジラが平成ゴジラシリーズだった、というのは当然大きい)

そしてその"説明のつかなさ"を、3.11以降の漠然と漂う日本社会の言語化しづらい不安感、恐怖感をゴジラという存在そのものに担わせたのが『シン・ゴジラ』だったのかなと。


この、エンタメ方向をハリウッド版ゴジラ、メッセージの重さを『シン・ゴジラ』が描いたことで、それでも和製ゴジラを続ける意義、差別化を考えた末のその最小公倍数が本作『ゴジラ-1.0』だったのかな、と。
そして、これがアメリカで成功を収める、というのはそういったタイミング的な要素が大きいのかもしれないが、個人的には微妙な点も多く、色々な面でマイナスワン、な一本でした。
ジャン黒糖

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