伏暗

みなに幸あれの伏暗のネタバレレビュー・内容・結末

みなに幸あれ(2023年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

日本ホラー大賞受賞作ってなんぞや?などと思いながらも「新時代のホラー」という触れ込みに魅かれて朝っぱらから予約。寝坊しないように2時間は早く起き、万全の準備で劇場へ向かう。コンパクトな映画館、集まる人々もホラー映画好きが多そうで、否応なくテンションが上がる。

「こりゃー、最近のアイドルの映画実績のためにあるようなゆるゆる恐怖の謎映画とは違うぞ……」とドキドキしながら少し前のめりに鑑賞を始めた。その一時間後には、両腕をガッチリと組んだまま、小さなスクリーンを前にして、深く深くシートにもたれこんでいた。傍らには首を傾げるオッサンたち。

終幕後、物言いたげな瞳に見送られながらエスカレーターを降りる。頭の中を古川琴音の叫びが満たす。「うん、分かるよ、マジでウルセェよな」と一人で頷いたのだった……。

さて、ところで皆さんは『世界がもし100人の村だったら』というベストセラーをご存知だろうか。

ひとつの思考実験として、当該書籍をホラーテイストに膨らませればどういうものが出来上がるだろう。「言ってる意味がわからない?」なるほど。なかなか想像が難しいという方は、本作をオススメする。一つの答えがここにあるはずだ。自己啓発本の如く、本作にしょうもない副題をつけるなら『みなに幸あれ〜世界がもし100人の因習村だったら〜』というところだろうか。

まず、本作は……ホラー映画と呼ぶのが躊躇われる作品である。開始5分で開陳されてしまうのだが、とにかくメタファー盛り盛り、問題提起盛り盛りの「現代人への呪詛のような何か」であり、真正面から悪霊や悪魔や、カルト団体や邪悪な神々が四つ組で仕掛けてくるような愛すべきホラームービーではない。とりあえず、クソッタレ因習村とか邪悪土着怪異とか狂った宗教だのによるダイレクトな怪奇を求めるホラーラバーは回れ右(これを読んでいる貴方のことだ)。そういう映画ではない。言うなれば、これは不条理系社会風刺ジャンルというものだろう。誰が観てもそう言うはずである。

で、そうなると言わないといけないのが、「社会風刺モノ」は最低限の知識と脳みそがないと成立し得ないということ。マジでクリティカルな説得力がないと、風刺なんて陳腐な駄論にしかならず、ブルーバックスや新書の下位互換にもならない……。今回の感想としては、この点に絞って、ちょっと内容を掘ってみたいと思う。

⭐︎犠牲と幸福について
突然だが、シャーリイ・ジャクスンの『くじ』(The Lottery)という作品をご存知だろうか。この作品は、小さな村で行われる奇妙なくじ引き儀式を描いたものだ。物語のラストには、くじ引きに当たった村人が、村人全員から石で打ち殺される。それにより村の豊作が保証される。あるいは、ゲド戦記のアーシュラ・K・ル・グィンによる『The One Who Walk Away from Omelas』。こちらでは、ただ一人の虐待される子どもと引き換えに町全体が幸福になり続ける。その価値観を受け入れられない人々はオメラスの街から去ってゆくが、今のところ虐待される子どもを解放しようという者は表れない。どちらも示唆的な短編なので、時間があれば是非読んでみてほしい。この辺りの話は、かなり本作に近しいテーマを扱っている。

あるいは、ダイレクトに座敷童子であれば、『うしおととら』の「監禁される座敷童子」の話か?(笑)まぁ、なんにせよ、少数の自由を奪ったり、苦しめることで多数の幸福を維持し続けるというモチーフ(というかシチュエーション)は、功利主義的へのカウンターとしても、単なるお話としても先例があり、なかなか面白い内容に仕上がっている。かつて功利主義が「最大多数の幸福のために少数を切り捨てるのか」と問われた時に、さまざまな応答が試みられたことを思い出しながら、そして、オメラスのことを思い出しながら、本作を鑑賞していた。本作も先の二作と同じく、作中最大のテーマである「犠牲なくして幸福なし」について描いているものだ。先の二作ではどちらも架空の村や街を題材として、あくまでも寓話的に、訓話的にテーマを表現していたが、それが映像化されたことで、いくつかの違和感が浮かび上がったように思う。

まず、言うまでもないことだが、「犠牲なくして幸福なし」は極めて短絡的な世界観であり、現実どころか、現実の卑小化である。使い古されたお話で恐縮だが、世界が完全なゼロサムゲームであり、幸福(あるいは富)の総量が変動しないのであれば、人類文明はここまで発展していない。平易な話として、他人から奪わなければ食物を獲ることができなかった少数民族の抗争時代はともかく、現代人類は大豆から肉を作るまでに発展している。科学の進歩とともに、数多くの「人類をより多く生かすための技術」が開発され、足りないなかでも、より多く足りるように試みる工夫がなされ続けている。同じ人類間での悲惨な犠牲というのは、確かに現代社会では避けえないものであるとはいえど、世界の真理として不可避のものではないのである。であるがゆえに、「犠牲なくして幸福なし」というテーマを、作者がどのレベルで信じているのかは非常に気になる。頭から信じ込んでいるなら、流石にちょっと厳しい。

それでも、オーバービューではあるものの、人間という一種族よりも視野を広げてみれば、確かに動物(とりわけ家畜)は人間生活の犠牲になっていると言えるだろう。しかし、それも将来的には代替食料によって生命の犠牲が最小となるかもしれない。そもそも、「生きることには犠牲が必要」という命題もかなり欺瞞であって、より正確には「生きるにはコストが必要」くらいに留めておくのが賢明であろう。そのコストを犠牲と表現するかどうかは、語り手の良識次第だろうが、私個人は良い表現とは思わない。

それでも、「コストがゼロにはならない」とか、あるいは、「大豆が犠牲になっている」とかいう反論はあるだろう。なるほど、仰るとおりである。しかし、「生存のために、大豆などの植物や極めて少ない生命の犠牲が発生することに、なんの問題があるのか」。実のところ、その崇高な問題意識を正当化するのは思っているほど簡単ではない。例えば、二酸化炭素排出量が増えすぎてはいけないからメタンガスを吐き出す畜牛を増やしてはいけない、としよう。では、その正しさを達成するために、この世から牛をすべて絶滅させる必要があるだろうか。もちろんそんな必要はない。同じように、生命の犠牲はいけないというのが自明であるとして、では、あらゆる生命の犠牲をゼロにする必要があるのだろうか。同じく、もちろんそんな必要はない。これらは本質的に「程度問題」なのである。

端的に言おう。極論は建設的な議論の役には立たない。我々が生きているこの世界、空想ではない現実には無数の「程度問題」がある。害悪、犠牲、労苦、不平等、暴力。これらは量が増えれば忌み嫌われる事象であるが、許容できる範囲であれば、そのすべてを特別に根絶する必要はない。大豆の犠牲を気にする必要はないし、極小の犠牲で最大の幸福が可能になるならば、それは「犠牲なくして幸福なし」とあえて言うほどのことではない。蟻を踏み潰すことを恐れて一歩も動かずに死んでしまう人を見て、その素晴らしさに感動する人がいるだろうか。ジャイナ教徒が虫を殺さずに払うように、それで十分に律を果たしたと看做されるように、人間に出来ることは可能な範囲での尽力でしかない。それで十分なのである。完璧でないとしても、配慮を尽くす。あるいは、尽くそうと試みる。それが人間の素晴らしいところなのであり、道徳や倫理の求める答えでは無いだろうか。

虫を殺さずに払う人と、虫を積極的に殺す人がいたとする。その行為は比較すればまったく異なる結果を生むが、それでも彼らが犠牲を強いているという点で同一の悪であり、同じ穴の狢と言えるだろうか。私はそうは思わない。余談だが、このような議論は現代倫理学(特に功利主義領域)において、極めて込み入った論争がなされているものであり、正直、私なら迂闊に突っ込みたくはない問題である。そんなに簡単に風刺できる話ではないとすら思っている。

それゆえに、本作における犠牲のメタファーの数々には、極めて大きな違和感があった。なぜ、ある種の「程度問題」であることが触れられずに、インパクトのある外見を有した「犠牲者」が「必ず必要だ」という話になるのだろうか。それは現実にある問題を過度に誇張し、視覚や倫理観に働きかけて、情動の拒否反応を引き起こすことで、そのメタファーの妥当性をあやふやにする行為ではないだろうか。

例えばの話をしよう。例えば、本作における「犠牲」がもっと軽微なものであればどうだろうか。目と口を縫わない単なる軟禁であるとか、労働力の搾取であるとか、幸福に対する他者の対価がその程度のものであれば、本作は「幸福と犠牲」というテーマをここまで強烈な印象でもって描くことができただろうか。私はできなかったと思っている。そして現実において搾取と呼ばれるものは、それよりも尚、忌避感の軽い程度のものかもしれないのだ(現代日本人というと低賃金アルバイトや返ってこない社会保険料などが頭に浮かぶけれども)。

思うに、この作品が訴えているテーマは、強烈なビジュアルと、過度に誇張化されたメタファーがないと力を失いかねないものであり、その強度を維持するために、非現実的かつホラーちっくな演出が為されたことについて、ホラー映画としては評価する目もあるだろうが、社会風刺としては迂闊と捉えざるをえない。

いや、もちろん、作者がこのようなテーマを心底から信じているとも思ってはいない。表出の仕方が問題含みなのだ、という話である。

そりゃ、目と口と耳を縫われた中年男性は、現代社会において犠牲になっている氷河期世代の男性を表したものである(笑)とか、目と口と耳の縫合は、「何も言わせず」「何も見せず」「何も聞かせず」に生き殺しにしていた政治と、それを許容した国民への風刺である(笑)等と受け取ることは可能である。こじつけることだってできる。これらは、過度にグロテスクな誇張なのではなく、適切な要素の抽出なのだという主張は当然あるだろう。しかしながら、「犠牲なくして幸福なし」というテーマを描くために、本作は「そのようなグロテスクな犠牲者が必ず必要であり、そのような人々がいなければ代わりに誰かが死ぬ(それも目から出血して痙攣を起こすという恐ろしい死に方をする)」とまで表現している。

確かに、資本主義においても社会主義においても、人民の格差は大なり小なり生じてきた。しかし、低層の人々がいなくなったからといって、資本家が目から出血して震えながら死ぬわけではない。低賃金のアジアの技能実習生が誰もいなくなったからといって、日本人が直ちに死ぬわけではない。当たり前のことだが、犠牲がないと人がみんな死ぬわけではないのだ。

では幸福ではなくなるのだろうか。確かに利便性や快適な生活や、巨万の富は失われるかもしれないが、それは勿論、死ではない。完全な不幸でもない。単に少々の不便と富の減少を受け入れるという結果がもたらされるにすぎない。つまり、私が言いたいのはこういうことだ。

「犠牲を減らして幸福を減らして、それでも皆が幸せであるという状態は十分に想定できるものではないだろうか」

冒頭に挙げた『くじ』や『オメラス』の話を思い出してほしい。あれらの話の教訓は、「少数の人間の不幸によって多数の幸福が強力に担保される社会の是非」を問うものであり、過激な功利主義的立場へのカウンターとなりえるものだった。だが、本作ではその問いかけが微妙にすり替わっている。もちろん、オメラスにおいても「虐待されている子どもがいなければオメラスの幸福がすべて失われる」というルールはある。しかし、同時に、「そこから歩み去ることができる」ということも示されているのだ。楽園のようなオメラスの外は、過酷な荒野である。しかしそれでも必ず死ぬわけではない。楽園を追放された人間のように、それでも生きていけるのである。幸福が主観的だからこそ、そのような生き方だって否定されないのである。だからこそ風刺の持つ「正の力」が生きているのである。本作ではそのような示唆が乏しいまま、ただただ誇張された絶望がのしかかるだけの結末を投げつけて終わった。それはオメラス的な理屈の押し付けであり、ネガティブな欺瞞でしかない。

また、実際的な話として、格差のありすぎる社会を長期的に維持することは困難である。歴史が証明しているように、暴動や治安の悪化を防ぐためには最低限の社会保障が必要なのだ。そのためには、富の再分配や社会福祉が万人に与えられなければならない。現代の先進国の多くが目指している安定した社会とは、断じて格差状態の放置では無い。社会が適切に維持されている状態を多くの人にとっての幸せとするなら、過度な搾取のない、一定の平等が担保されている社会のほうが、搾取の横行する不安定な社会よりも、より幸福度が高いと言えるはずである。犠牲の少ない社会のほうが相対的に見て幸福である、あるいは緩やかな幸福を維持しやすい、というのは否定できない現実であろう。

以上のとおり、本作においては、総じて、メタファーという言葉ではカバーしきれない過剰な暗喩表現が気に掛かった。ホラー映画としては悪くない描写かもしれないが、社会風刺としても生かしたいのであれば、実態とかけ離れた主張に見えかねないものを紛れ込ませるのは悪手である。これが通常のホラー映画であれば、そんなことには頓着しなくても良いかもしれない。しかし、主義主張、テーマを全面に出してしまっている本作では、そのテーマがどれほど真摯に熟慮されたものなのかもまた、吟味されてしまうはずである。その意味でいえば、ホラーと社会批評の食い合わせはそれほど良くはない。

付け加えて言えば、批評的メッセージをどこまでオブラートに包んで出すかという点にも、更なる工夫が必要だっただろう。私個人の所感だが、本作では、比較的ストレートな言葉で語られるものが多く、それが映画への没入感を削いでいた。台詞回しの固さというのか、何かの本から切り取ってきたような文言が、生きている設定の人間から溢れ出す度に、脚本を書いた何者かの声が垂れ流されているようであった。お仕着せの台詞によって風刺性がむしろ薄れるという逆効果。作者の頭のなかの箱庭に、主人公と観客が閉じ込められているようで、あまり心地の良い感覚ではない。まったくの想像だが、当初のアイデアとして、「他者を犠牲に(生贄や監禁→搾取)して幸福を得る者」=「邪悪な怪異」という図式があり、そのアイデアを拡張した結果、「犠牲による幸福が可視化されている世界」という世界像設定が為されたのかもしれない。

しかし、それは現実世界とは似て非なるものであるため、作品が進むにつれてその乖離が埋め難いものとなり、それでも世界像を調整できず、また、社会風刺にホラー映画を被せることに固執した結果、描写とテーマの乖離がさらに大きくなったのかもしれない。

なお、肝心のホラー描写については想像を大きく超えてくるものはなく、目からの出血や痙攣といった段階を踏んだ呪いについても、あえて言うなら『聖なる鹿殺し』を彷彿とさせるものでしかなく、特段の新規性を感じなかった。役者は良かった。祖母役の演技がなんとも絶妙で、良くも悪くも独特である。もちろん、主役の古川琴音は言わずもがな良かった。

さて、ある程度の評価は固められたと思うが、本作ではいまいち意味が受け取りづらい描写があったので、少し疑問と考察を行いたいと思う。

◇あの赤子はなに?
よく分からない。だが、老人が赤子を産むというシチュエーションと、母と祖父が祖母の分娩台になっているという点を材料にすると、直接的には介護の暗喩かもしれない。老人が赤子を産む(白痴になる)→それを支える家族。皮肉が効いていて我ながら妥当な解釈だと思う。いや、合っているかは分からない。

◇あの味噌はなに?
よく分からない。搾取の象徴だろうか。「犠牲」から取られる甘露のようなものであろう。それほど大した意味は乗っていない気もするが、折角なので、そもそも、あの『犠牲』が何かというところから追ってみたい。

気になっているのは、枯れた盆栽のシーンである。あの『犠牲』は自らの身代わりに不幸を受けるもの=御守りのようなものとして扱われていたが、『犠牲』がいなくなると同時に盆栽が枯れ果てたことから、単に不幸を受けていただけではなく、家運や生気を司る役割を持っていたのだとも読める。いわば「汚い座敷童子(笑)」というわけ。そういう意味では、搾取された運気や生命力の象徴と取ることもできるかもしれない。もっと卑近な解釈として、社会保険料というのもアリかもしれない(冗談)。

いや、真面目な話だが、本作に頻発する謎のシーンや解釈の幅がありすぎる材料は、読解ノイズになるのであんまり快く思わない。とはいえ、そういうものが多いほうが、説明セリフだらけの陰謀論開陳よりは考察の多様性があって面白いし、ホラーとはそういう謎の丸投げにこそ醍醐味がある、というご意見には同意する。何度も書いているが、単なるホラーならサクっと受け入れている。社会風刺をするから真剣にならざるをえないというだけなのである。

⭐︎『犠牲』ってなに?
よく分からない。汚い座敷童子自体も、観る人によって姿が異なるような表現が為されていた。母親による「あなたにはアレが人に見えるの?」という指摘は、家族には『犠牲』が人間には見えないということを示唆しているものだが、私個人としてはあれはやはり「人間を最も強く表象するメタファー」だと受け取らざるをえず、母親の言葉は、単に「人を人とも思わない」の表現であったと捉えたい。

もちろん牛や豚や鶏といった生活の犠牲となっている生命全般を含んだ『犠牲』概念自体の表象と見ることも可能だが、だとすれば「街へ行って引っ掛けてこい」とか「私たちはやめてね」という件があまりにも安直かつ露悪的すぎるので、やっぱり単純に犠牲となっている人間のことだろう。この辺りの描写を上手いと捉えるか、過度な誇張でテーマ性を破壊していると捉えるかは、観客次第だと思います。僕は若干ぶっ壊れてると思っている。よくない部分。

◇祖父母の様子がおかしかったのはなに?
よく分からない。序盤の奇行は特に説明が乏しく、意味を取ることが難しい。「豚の鳴き真似」「虚空を見つめて止まる」「扉の閉まった部屋へと突進」「目に入れても痛くない孫の指を目に入れる」、このあたりだろうか。宇宙人に洗脳されたのかと思うくらいの奇行であって、言動の無機質さ、話の通じなさも得体の知れない異文化を見ているような感覚がある。ただ、出産前後のシーンをみるに、祖父母だけでなく、父母も基本的には同一の洗脳に染まっていると思うので、どちらかと言えば、あの世界の常識としては「奇行」が正常なのである。「奇行」をしない主人公が異分子であって、嘲笑される存在なのである。それを材料にするならば、「奇行」とは「犠牲を許容する人々が日常的に行う行為のメタファー」だと考えられる。それが何かと言われるとよく分からない。犠牲を許容する社会そのもののシステマチックな狂気」の表現だろうか。

(……いや、あのですね、ぶっちゃけますけど、風刺モノって「あれはこういう概念のメタファーでぇ〜」って言っとけばなんとかなるので、こじつけたもん勝ちですよね(やめろ)。)

とはいえ、「食べられるために生まれてきてくれた豚さんありがとね〜」みたいなことを言いながら「死んだ犠牲を供養もせずに足蹴にして焼き捨てる」という二面性は率直に面白い。表面的には「犠牲さん有難う……涙」みたいなことを言うけれど、本心は大してなんとも思ってねぇじゃねぇかと。そういうネタであろう。こうなると「孫のことを目に入れても痛くない」というのも果たしてどこまで本当なのやら。ただ、本音と建前、という面白さを扱うには、本作の台詞回しはどストレートど真ん中すぎていた。みんなが「犠牲になれ〜」「人間の本性はこれだ〜」「世界はこういうもんだろ〜」を正面からぶつけてくるせいで、徐々に白けてくるというのも、あるっちゃあったんだよな。ここも惜しいポイント。

◇急に始まったヒューマンビートボックスパートはなに?
よく分からない。が、一つには生贄を捧げる際の祭祀(幼馴染は気絶状態でそのまま縛られていたけれど)。一つには『犠牲』をおだてて踊らせて思い通りにする社会という風刺。一つには古川琴音も実は『犠牲』の存在を最初から知っていて、それに目を瞑っていただけだという設定開示パート。こんなところだろう。だが、まぁこの手の不条理映画だとよくわからないノリの奇行は逆によくあるものだ。そんなに気にしなくても楽しめるに違いない。よく分からない材料はよく分からないままで良いのかもしれない。



では最後に、本作のラストにおいて古川琴音は幸福になったのかということを考えていきたい。いやいや、幸福って言ってたじゃんという意見は甘んじて受け入れるが、そもそも、幸福(well-being)には「主観的幸福」と「客観的幸福」の二種類が想定できるのである。

たとえば、パチンコ競馬でギャンブル三昧の独身中年男性は、脳汁ドバドバで抜群の主観的幸福を有しているかもしれないが、客観的にみると、預貯金もなく、家族も資産もなく、客観的な幸福指標をなにひとつ満たしていない(暴言)。これと同様に、幸福には「短期的幸福」と「長期的幸福」の二種類が想定できる。たとえば、実家を売り飛ばして2000万で中古のフェラーリを購入した年収400万の独身中年男性は、短期的には抜群の幸福度を有しているかもしれないが、長期的には……主観的幸福としても、あまり良い結果にはならない(フェラーリが分かりにくければソシャゲ課金300万でも良い。とはいえ、このような長期的な効果の計測は大変難しいもので、仮にフェラーリが値上がりするとか、車のお陰で恋人ができるなどすると、むしろ抜群のリターンとなる可能性もある)。

国家や政策のレベルでも同じ問題がある。ある施策が長期的に見て、良いのか悪いのかを判定するのは極めて難しい。特に政策レベルの話となると、何を指標として幸福を計測するかも問題となる。この辺はちゃんと書き出すと終わりがないので割愛するが、とにかく、幸福を測定するのは難しいということは分かってほしい。

さて、本作に戻ってみると、まず主観的幸福アプローチでは、『犠牲』によって幸せを獲得した人々は、概ね幸福だと判定できる。個人レベルであれば、客観的なアプローチ(ケイパビリティアプローチなど)によっても、短期スパンでは彼らは幸福と言えるはずである。

しかし、より広い範囲、人民レベルの長期的な客観的幸福というところになると、まず気になるのが幸福の持続可能性(サスティナビリティ)である。個人の幸福においては、幸福を測るために短期スパンを見れば良いのだが、社会全体の幸福という点では、超長期で、幸福を持続可能な社会であるかどうかが極めて重要となる。

本作における『人身御供』あるいは『供物』あるいは『人柱』の制度は、社会を長期に渡って安定させうるものだろうか。どう考えてもそうは思えない。特に問題含みなのは、「私たちはやめてね」という村の老人の台詞だろうし、街で捕まえてこい」という友人女性の台詞である。さらにまた、何も知らずに菓子を勧められ、『犠牲役』にされそうになった老人の存在もノイズになる。

なぜなら、上記の台詞やシーンは、「この世界においてはある日突然に誰かの『犠牲』となることが一般的であること」と、「それを拒否したり助けを求めたりするのが難しいこと」を示しているからである。つまり、システムとしての『供物制度』を個人的な理由から拒否することはできず、この生贄による幸福システムを採用した社会においては、常に、「個人的幸福が唐突に終わる可能性」を受け入れることが必須なのだ。

このあたりは無知のベールの議論を思い出す。自分がどういう存在であるかが事前に分からなければ、奴隷制度などを導入することは躊躇われるため、公正な社会を目指すのが比較的合理的な選択にならざるをえない。つまり、自分がなりたくない社会的立場を制度設計に盛り込んではいけない、というわけである。無知のベールに対する批判も多々あるが、本作を読み解くにあたっては有用だろう。

あなたやその家族や友人が『犠牲』になることも別に珍しくない世界、そのどこに素晴らしさがあるのか。無知のベールの会議があるならば、マキシミン原理に基づいて、『犠牲』システムはたぶん可決されないだろう。

仮に、それがもしも手違いで可決されてしまったら、その時には悲惨な社会が顕現する。メタファーに対して野暮ではあるが、SF的想像力を最大限に働かせるまでもなく、社会が破綻することが予想されるだろう。なにせ愛する家族がいきなり拉致されて感覚器官を縫われて、監禁されるわけである。法では裁くことができないのだろうから、私的報復に頼らざるをえず、復讐が繰り返されることになる。それすらも「仕方ない」として受け入れてしまうのであれば、そんな主観的幸福はどう贔屓目に見ても現実逃避に過ぎず、単純に狂っている。

そして、客観的には、家族を拉致されて何も言えない不幸なアホがひとり。幸福などありえず、やはりそんな社会が成り立つわけがない。本作では、たまたま天涯孤独の幼馴染を拉致しているが、『犠牲』の作中設定としては別にそういう人間に限らないわけである。これが、(姥捨山のように)社会のお荷物を生贄にしよう、だとか、(オメラスのように)ランダムに村の一人の生贄にしよう、とかなら存続の目もあったのだろうが、各家に一人、それも勝手に見つけてきて拉致するなんて、成立させるのが難しすぎる。こんな長期的に持続しようのないシステムで、「これで主人公は素晴らしい幸福を甘受しているでしょう?」などと言われても首を傾げるしかない。いやいや、主人公がどうのじゃなくて社会が破綻するんじゃねーの、と……。

さらに想像力を広げれば、そのシステムが破綻した後の世界についても考えられる。仮に犠牲が成り立たなくなったとしても、厄介なことに出血と痙攣の呪いは続くわけである。これが面白い。これ、かなりやばい呪いなのだ。次ののフェーズでは、とてつもない日本国民の死と、大規模な内戦を伴う人種差別や迫害、組織的な暴力による搾取が起こるだろう。特定の属性を持つ人間(子なし独身のキモい中年男性とか身寄りのない孤児とか同性愛者とか知的・身体的障がい者など)が理由をつけて襲われ、隔離され、大多数の人民のために犠牲になるという。そしてその内、誰かが気付く。

「国民全員が婚姻関係か養子縁組を結んだことにすれば生贄は一人でええやんけ!!」

これは素晴らしい発想であった。この家制度を利用したバグによって、画期的な福祉国家オメラスが誕生する。一人で一億の罪を贖う最強コスパの『犠牲』であるから、流石にみんな心底から感謝するんじゃないだろうか。『犠牲役』を代々務める一族なんかも出てきそうである。神格化されて、現人神と呼ばれるようになり、そのうちに技術進歩によって『呪い』が克服される(そもそも出血と痙攣の起きない機械化身体を手にしているとか)と、もはや『犠牲』すら不要となり、なぜそうであるのかも分からないまま、彼らがこの国の象徴となるかもしれない。そうなりゃ、日本は安泰ですね。

はい。くだらない冗談はさておき、そもそも本作の世界像に、現実的にシミュレート可能なものとして見られるほどの強度はない。それはもちろん、メタファーだからであるし、フィクションだからである。村ホラーに無理やり風刺をぶっ込んだからであるし、そのホラーの筋のために風刺の強度を弱めたからである。だから本作では胸くそを悪くする必要がない。安心できることに、徹頭徹尾で「非現実的」だから。

こんな極端な『犠牲』システムを維持できる社会はないし、早晩に崩壊する社会において、「これがお前らの享受している幸せだ」みたいな主張があっても響かない。現実世界の搾取はもっともっと、遥かに巧妙に「生き殺し」にしており、だからこそ持続しているのだ。この社会の不平等というものは、もっと上手くやっている。

さて、本作が抱える非現実性。それが良いのか悪いのかは、観客が何を求めているのかに依存するだろうが、少なくとも、本作が試みた社会風刺とホラー映画の融合は、あまり食い合わせが良くなかったと感じる次第である。例えば、もう少し灰汁を抜いて、純粋なホラーとして演出強度を高めるか、社会風刺の強度を高めるために外連味を諦めることができたなら、エンターテイメントとして売れるかはともかく、説得力を持った作品には仕上がっていただろう。もちろんそれが、良いか悪いかは観客が何を求めているかに依存するし、作者の狙いに依存する(二回目)。

今作がやってしまったように、あんまり社会風刺を狙ってしまうと、観客が思想の強度テストを始めて面倒くさいことになってしまうので、もっと内容を不条理かつ意味不明にして、台詞回しを滑らかにし、ふわふわっと作るほうがよい。そのほうが多分、勝手にみんな想像してくれて、「なにも難しいことしてないのに」、なんだか妙に美味しい感じになる。語りすぎず、ぶつけすぎず。アリアスターとかのバランス感覚ってある意味めちゃくちゃ凄いんだよね。まる。
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