鋼鉄隊長

ゴジラxコング 新たなる帝国の鋼鉄隊長のレビュー・感想・評価

3.5
ゴジラ映画として観た時に、絶対に自分の中の哲学に反するはずなのに、何か「これはこれでアリ」に思えてしまった。
これは型破りな怪獣映画でありながら、怪獣という存在を非常に丁寧に描いているからだと思う。

この映画における人類は怪獣であり、また怪獣は人類でもあるのだ。今回登場する種族は、①キングコング(大猿族)、②人類、③ゴジラ(及びその他巨大生物)に分けることができる。

基本的な物語の主軸は、キングコングが担っている。
前作『ゴジラvsコング』(2021)にて地下空洞での生活を選んだキングコングは、さらにその下層にある未調査エリアにて同種の集団と出会う。ここから始まる大猿たちの物語は、同種族でのやり取りが基本であり、それはつまり大猿を使ったニンゲン・ドラマである。前作とは異なりキングコングと意思疏通が可能な少女ジアとの交流が少ないのも、今回はキングコングをニンゲンとして描いているからだろう。

ではキングコングがニンゲンとなれば、人類の役割はどうなるのか。
ここでの人類は怪獣、より正確には宇宙人なのである。怪獣(または宇宙人)というのは元来、我々の文明社会を脅かす存在だ。その構図から我々をキングコング族に置き換えても、この映画は全く問題なく成り立つ。
ニンゲンである大猿どもの文明は原始的だ。ゴジラの背鰭をただ巻き付けて斧を作るのが精一杯で、高度な加工生産技術を持ち合わせていない。虫歯の治療すら自らでは行えない程だ。そんな連中にとって、機械技術を駆使する人類は上位存在であり脅威といえる。それは正に我々にとってのバルタン星人のような超自然的存在だ。

そんな宇宙人である人類は、かつての特撮映画に登場した侵略者のように怪獣たちを使役する。まるで霊長の座をゴジラに明け渡したかのように振る舞う人類だが、劇中ではゴジラの行動をほぼ全て予測して誘導している。

これこそが僕の怪獣哲学に反しているところだ。怪獣とは文明の破壊者であり、彼らが都市に被害をもたらすことで文明人にメッセージを伝えるのである。
にもかかわらず、劇中の人類は都市破壊など些細な問題としか考えていない。コロッセオなどの文化遺産が蹂躙されることすらコラテラル・ダメージ(目的のためのやむを得ない犠牲)として処理している。ゴジラや他の怪獣が、文明を犠牲にして使用する生物兵器に成り下がっているのだ。こんな暴挙を許して良いのか!

しかし、この悪魔的発想の前提に、今回の映画におけるニンゲンがキングコングであることが活きてくる。
悪政に苦しむニンゲンたちが、宇宙人の介入と彼らが使役する怪獣によってそれを打ち砕く。人類が上位存在として手助けする流れが上手くハマると、流石に文句も言い難い。

だが、怪獣もただ黙っているわけではない。今回初登場した愚かな暴君猿スカーキングと、こいつが暴力で服従させた冷凍怪獣シーモ。この2体の構図が素晴らしかった。彼らの顛末は、怪獣を我が物顔でコントロールする異星人たる人類の横っ面にビンタするかのようなメッセージ性を感じた。
このデタラメな作品は、間違いなく怪獣映画である。本当に真剣な怪獣映画を観たと思う。
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