鋼鉄隊長

シン・仮面ライダーの鋼鉄隊長のレビュー・感想・評価

シン・仮面ライダー(2023年製作の映画)
4.0
僕はアンチ『シン・ゴジラ』、アンチ『シン・ウルトラマン』であるが、今回は悔しいことに面白いと思った。
これはエンタメとしてでは無く、「仮面ライダー論」映画として評価出来るという意味だ。

仮面ライダーはその歴史の中で、ひとつの要素を捨てたように思う。
それは「改造人間(怪人)」だ。
90年代、往年の特撮作品を現代的視点で換骨奪胎する流れ(俗に言う平成特撮時代)があった。

その一環として、生体改造兵士が主人公である『真・仮面ライダー 序章』(1992)が誕生する。題名に序章とあるように、この物語は2作目以降で、「改造人間の醜い体をスーツで隠し、バイクを手に入れて仮面ライダーガイアとなる」構想が存在したが、結果として実現せず、『仮面ライダーZO』(1993)や『仮面ライダーJ』(1994)に一部継承されつつも有耶無耶となった。

一方で後の平成ライダーシリーズで、『仮面ライダー555』(2003-2004)が携帯可能な変身ベルトを用いた「ライダーのパワードスーツ化」を確立した。これにより、肉体を改造せずとも人間がベルトによってライダーに変身する理由付けが出来た。

こうして仮面ライダーの歴史は、醜悪で悲劇的な怪人を置いてきぼりにして、ベルトによる変身者達の物語へと移行した。

『シン・仮面ライダー』は、このようなシリーズの変遷から外れた「怪人の延長線上にある仮面ライダー像」を描こうとしたのではないか。
つまりこの作品が目指した姿は、『シン・真・仮面ライダー 序章』なのだ。
劇中初めて変身した本郷が、逃げ込んだ小屋の中でスーツを脱ぎ、自身の肉体が怪物のように変化したことに驚くシーンは正にそれであった。

さらにこの作品は、善悪の境界を曖昧にすることでライダーと怪人の垣根を取っ払った。その最大の演出は、悪の秘密結社ショッカーの透明化だ。
『仮面ライダー』最初期のエピソードである旧1号編を下地にしていることからも分かるが、この物語におけるSHOCKERは、限り無く組織としての影が薄い。まだ大幹部もおらず、Kという傍観者によって最低限に怪人同士を繋ぐ程度でしかない。
これにより個人vs組織の構図は消えて、自らの意思で動く改造人間達の物語にする。誰もが善に、または悪になる可能性を持った不安定さが充満していた。
結果的に一文字隼人が「人類の味方」と名乗り上げることで、初めて怪人バッタ男が、仮面ライダーというヒーローとなったのだ。

『仮面ライダー』放送から半世紀ほど経った今、再び仮面ライダー論をここまで愚直に徹底して語ったことは大いに評価出来る。僕は庵野秀明のシン・シリーズというものが、平成特撮を再評価・考察するものだと考えるが、その意味では前2作とは比べ物にならない程に良く出来ていた。

一方でこの映画が娯楽作品として致命的に退屈なのは否定のしようが無い。
アクションはカットが多く、カメラも寄り過ぎていて何がなんだかわからない。画面を暗くしても誤魔化しきれないCGの陳腐さにもゲンナリした。
総評としては嫌いな作品だが、無人新幹線爆弾やQ怪獣総進撃のあった前2作の方が鑑賞時の興奮はあった。今回は映像作品としてまるでダメだ。

しかし、『シン・仮面ライダー』には特撮ヒーローの未来があった。平成特撮に揉まれ形骸化した改造人間の苦悩が、社会の闇に消えた異形の戦士の叫びが、まだ正義の味方として戦えるという可能性を確かに感じた。
仮面ライダー像は多様であって良いと思う。その中にかつて存在した「怪人のライダー」が再び語られる転機となった。それだけでこの映画を評価するに十分な理由となるだろう。
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