mochi

PERFECT DAYSのmochiのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.5
やることが色々あり、観に行くか迷ったが、ようやく鑑賞。ヴェンダース監督が大好きなのだが、好きになってからリアルタイムで映画が公開されるのがおそらく初めてだったので、奇妙な感覚であると同時に、あの年齢になっても撮り続けてくれたことで、この経験を可能にしてくれたことに感謝したいと思った。
ヴェンダース監督の映画は色々観たので、予測を外してこなかった点がやはり多かったが、元々好きな監督なので、それでも満足できた。映画タイトルの「Perfect Days」はルー・リードの「Perfect Day」からだろうと思っていたので、いつ同曲が流れてくるか身構えていたが、予想通り流れてきましたな。エンドロールも同曲だったけど。ルー・リードの同曲は他者の存在が救いとなる、という曲であり、「トレインスポッティング」で同曲が使われたときは、「君」が薬物のことだという皮肉が前面に現れていた。本作では、むしろ「君」の存在があまり要請されず、一人で生きていく人間の、一人の様にこの楽曲が重ねられるやり方がなされている。また、ルー・リードの楽曲は「(死ぬには)完璧な日」という意味らしいが、本楽曲では死のイメージはとても遠く、むしろ「(生きるのに)完璧な日」となっている対比も意識されている。また、同楽曲が流れる前に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Pale Blue Eyes」が流れたり、中古レコ屋でルー・リードの「Transformer」を発見するシーンが挿入されているなど、本楽曲の挿入への期待が高められる作りになっている。女の子の名前もニコだしなぁ。完全にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンへ向けたものになってる。パティ・スミスが出てくることからも、本人のNYCパンクへの愛情が現れていて良い。また、それが、東京の情景とともに使われているミスマッチが、とても心地よく感じた。
外国の人が見たら、トイレのバラエティとか、スナックの雰囲気とか、銭湯とか、ザ・ジャパニーズ文化盛り沢山なのも上手いなと思った。ここら辺は商業的なアスペクトを感じる点ではあった。
本作のテーマは、ロードムービー3部作および、「パリ・テキサス」でも主要なテーマであった、変化と維持、孤独と協調である。本作の主人公の立ち位置は、これらの作品の主人公の立ち位置によく似ている。彼らは皆、単調な日々の繰り返し、ミニマルな生活、世間からの隔絶を好む。植物への愛情や、本やカセットテープのコレクション、写真の撮影は、「パリ・テキサス」で描かれた靴を磨く行為によく似ている。あるいは、トイレ掃除という仕事自体もそうかもしれない。これらはいずれも人から働きかけるものであるが、相手からの働きかけを持たないものである。その意味で、動物への愛情と植物への愛情は全く別種のものである。一方、ロードムービー三部作や「パリ・テキサス」と異なるのは、これらの作品の主人公は変化への恐怖を感じているのに対し、本作の主人公は、変化への諦念、ともすれば期待があることである。彼は変化を恐れてはいないし、世間から隔絶されているとも思っていない。変化を恐れていないという点は、OLへの挨拶、マルバツをつける紙、ニコを受け入れる点にも現れている。また、「さすらい」の主人公が常に車で生活をし、「パリ、テキサス」の主人公が飛行機を恐れるのに対し、本作の主人公は自転車という身をさらす交通手段を積極的に使う。また、影踏みのシーンが最も印象的である。影は我々によって影響をうけるが、我々そのものではない。人と人と出会い影響を受けること、何かを思い出すことも、またそのようである。人の行為は直接に何か帰結を変えないかもしれないが、それでもある別の仕方で、他者を変容されることがあるのである…ちょうど影のように!主人公は、影が重なれば濃くなるか、という問いに、嬉しそうに肯定的に答える。これは、人と接することで、人生が濃密になること、動いていくことを受け入れ、またそれを期待することの表現と解することができる。ニコと2人で食事する時の、存在が示唆されるOLは象徴的である。OLと主人公がその場所で昼を食べるということ自体には変化はないが、ニコの存在により、ニコの意図せざる仕方で、主人公とOLの関係には変化が起きたのである。なぜならここでは、OLの存在は主人公に意識されないからである。また、主人公とともにトイレ清掃をする若者の友人が、若者を探しにきて発見できないシーンも象徴的である。若者が友人に無断で掃除を辞めたことが示唆され、若者にとっての友人が、主人公の意図していたようなものではないことがわかるのである。また、主人公が世間から隔絶されていると感じているのではないというのは、ニコとの会話において、複数の世界の存在を説くところに見出される。つまり、世界が複数重なっているのであって、隔絶という観念は、ある世界から見たときに、他の世界にあるように見えることである。そうしてさまざまなレイヤーの世界が重なり合って、新しい世界や人生が開かれていくのである。それはちょうど、一人一人の人生を葉っぱに見立てた時の、木漏れ日のようである。一枚一枚の葉が、影響し合うことで、木漏れ日は構成される。一枚でもかければ、異なる木漏れ日となる。一人一人の人生の中の同じ出来事であっても、AさんとBさんから見れば、異なる影響を受けることになる。これはちょうど、同じ木が対象でも、光の当てる角度が変われば、異なる木漏れ日が構成されることに対応する。
本作で描かれるのは端的に事実であり、人生のこうした変化が、良いとも悪いとも述べていない。主人公が影踏みで述べたように、それは良いのかもしれない。しかし、スナックのママが述べたように、ときには「なぜこのままでいられないのだろう」とも思う。ニノの成長を喜ばしく思う一方で、元々同じ世界にいたはずの妹との住む世界の違いを、非明示的な仕方で強烈に感じる。こうしたさまざまな肯定的評価と否定的評価が絡み合うのが、人生そのものだ、という描き方に見えた。寝ているときに出てくるイメージはその日であった人や物に関するものであるが、それがなんらかのトラウマや謎解きに繋がっているわけではない。端的に提示されているだけである。主人公の心にあるものとして。それに肯定的な意味づけや否定的な意味づけは可能なのかもしれないが、それ以上の考察を深める手がかりは、ないようにみえる。
最後の主人公の顔の長回しは、色々な捉え方ができるものであり、これ自体が人生の象徴である。「Perfect Days」の意味は、「良いことづくしの完璧な日」ではなくて、「すべての要素が兼ね備わった完璧な日」である。
本作にあるのは、ロードムービー3部作でえがかれた、変化と現状維持の対立に対する不安ではなくて、それをある意味で肯定するものである。あるいは、それを諦観し、期待するものである。ヴェンダース監督の人生の歩みと、映画作品のメッセージの変遷を同一視すべきではないが、そのようにみるならば、これはヴェンダース監督が出すことができた、前向きな答えなのかもしれない。
mochi

mochi