ぬっきー

落下の解剖学のぬっきーのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

久しぶりに、分からないことが真実…という気持ちになる映画をみた。
弁護士が劇中で何度も言っていたように、彼女が殺したか殺してないか、この映画の問題は(そして実は裁判の争点も)そこにはない。
人は一度、その人の自分の預かり知らないことを知らされると、その人のことを二度とは以前のように信じられなくなってしまう。裁判というモチーフはこのひとつの真実の形をよく伝えられるものだと思った。
この感覚は覚えがある。私が自分なりのやり方で信じていた誰かが、私の信じるの範囲を超えた事実を抱えていることを知ったときや、実はすでに起こっていたことがある日発覚して、それまでそのことを知らずに過ごしていた日々の平和をなんだったのか?と思うようなとき。この感覚になる。
ただ、自分がそうと思い込んでいただけなのだけど、世界はまったく変わってしまったような気持ちになる。
息子のダニエルは思いがけず、ある日突然この感覚に放り込まれて、シャワーを浴びる彼の背中には、大人の階段を望んでもいないのに、1日で50段も100段も昇らされた疲れと拒否感があった。がんばったなぁ、ダニエル。
でも真実はどこまで行っても分かりようがなくて。その曖昧な世界をみんな生きていくしかなくて、その中で人は自分なりに何かを信じることを決める。その力強さと、そして信じると決められる根拠のない何かに対する信頼のようなものが、最後にはあった。
帰ってくるのが怖いと言った親子は、たぶんお互いに初めて会う人に会ったような位置から始めなくちゃいけなかった。それくらいのことが起きたのだ。彼女は何も見返りがなかったと言っていて、確かに失っただけのように思ったけど、手探りでまたやり直す二人にはきっと、この通過儀礼を経ないときには得られない何かが起こってくるんじゃないだろうか。
私も最後は、彼女を信じようと思った。なぜなら、犬が彼女の隣で一緒に寝始めたので笑。
こういう、「知っている感覚」からも、物語ってつくることができるのだな。とても、すごい映画だった。
ぬっきー

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