レインウォッチャー

瞳をとじてのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.0
題の通り《眼差し》がキーになる映画で、劇中ではたびたび人物がこちらを真っ直ぐ見据え、そのうちの何人かが瞳を閉ざす。
その理由は各々別々でありつつ、わたしたちが「みて」いるものが映画であることを思い出させ、観(え)なかった映画・記憶・時間について気付かせる。

ビクトル・エリセ監督30年ぶりの長編作品は、過去作『ミツバチのささやき』や『エル・スール』の少女心象映画的なイメージから観れば、意外なほど明確な《筋》を持っていた。

かつて映画の撮影中に突然失踪した俳優フリオと、彼の親友でもあった映画監督ミゲル。
未解決事件を取り扱うドキュメンタリー番組の企画が持ち上がり、ミゲルが出演を決めたことから物語は始まる。

フリオが消えてから20年、事件の直後からミゲルは監督業から離れ、一時は作家をしたりして、今は海辺の寂れたリゾート地で半ば隠者のように暮らしている。彼が、未完のまま頓挫した当時の映画関連の資料を掘り起こし、フリオの娘アナ(『ミツバチ~』のアナ・トレント!)を初めとする関係者と久しぶりに再会し対話しながら、再び過去と向き合って行く。

アナやミゲル自身を含め、彼らは誰もが戻らない過去への諦め、降り積もった哀愁(※1)を携えている。まるで、フリオが消えたときに彼らの時間は止まってしまったかのように。
そんなミゲルたちの姿には、どうしてもエリセ監督自身の姿を重ねてしまう。現実の30年の間に作「ら」なかった、あるいは作「れ」なかった映画たち。動機も生死も不明のまま答えのない霧の向こうへ消えたフリオは、そんな映画たちそのものなのかもしれない。

今作が「映画についての映画」という側面を持つことは、観ていると徐々にわかってくる。
映画監督である主人公や、劇中劇の存在はダイレクトだし、画面の中には長方形のフレームがたびたび登場する。予告編にも映る、浜辺にぽつんと立つゴールポストや、後半の舞台となる施設の門、小屋の青い扉。

それらはスクリーンを入れ子のように切り取り、時に登場人物たちを囲い込む。彼らが映画のような人生、人生という映画を生きている(※2)ことを想起させると同時に、まるで「囚われている」ようにも見ることができる。

そう、彼らは映画に囚われている。そして、映画とは誰かの記憶の断片で、過去そのものだ。
完成しなかった映画、それぞれの抱える辛い思い出、いわば敗北の記憶(これは、劇中劇の登場人物にも設定として投射されている)…フリオが消えたことで行き場を失った映画を、彼らはずっと探し続けている。

そして、映画とは時間芸術と呼ばれるように、映画について考えることは時間について考えることと等しい。
ここでひとつ、時間を表すための二つのワードを持ち込みたい。クロノス=客観的時間とカイロス=主観的時間である。クロノスは年月や時分秒で表される、直線的で計測可能な時間。一方、カイロスは個々の感じ方によって伸縮する感覚的な時間だ。そして時に、他者とカイロスを共有することこそが、相互理解や自己実現のために重要になり得る。

始まりから終わりまで進行していく映画は、直線のクロノス時間に支配されているように思えるけれど、触れる者にとってはそれだけに限らない。
観ている間に個々の中に湧き上がってくる思考、そして観終わってからはシーンがそれぞれの記憶に組み込まれ、何度も同時多発的に思い起こすことができるようになる。言い換えるならば、カイロスの一部となるのだ。

この発想は、今作が示す「映画の役割」と重なるところがあるように思う。
人生に疲れたと語り、老いに沈む今作の登場人物たちは、つまりクロノスの直線の先にある《死》という結末へと流されるまま進むばかり。しかし、ミゲルは未完に終わった映画(=フリオの失踪の真相)と再び向き合うことによって、失われたかに思えた時間を取り戻そうとしていく。

事実、物語にとある転機が訪れて大きく動き出す中盤以降において、ミゲルは眼光を取り戻し若返っていくようにすら見えるし、ある重要な人物が口にする「私は誰でもない」という言葉、彼の人生に意味を与えるのもまた映画であったことがわかる。

過去という過ぎ去った現在の集合である映画を繋ぎ合わせることで、未来の可能性を再構築していく。ここにおいて、過去→未来というクロノスの直線は区別なくひとつに溶け合って(※3)、カイロス的な役割を帯び始めるのである。

この二極同一的なイメージを補強する劇中のモチーフとして、ヤヌス神(Janus)の像がある。ローマ神話に登場する、頭の前後に二つの顔をもつ神で、初まりと終わり、転じて過去と未来を同時に象徴するとされるものだ。冒頭と結びのシーンの両方にこの像は配されて(エンドクレジットでも何度も映され)、映画の構成自体を円環の中に落とし込んでいる。

また、《音楽》も補助線として機能している。ミゲルたちが互いに共有する時間を思い出すとき、たびたび歌やピアノといった音楽がキーとなる。共に演奏したり歌うことによって、彼らは同じカイロス時間をシェアするのだ。
映画と同じく時間芸術とされる音楽も、やはりクロノスとカイロスの両側面を持っている。また、ミゲルがこれから出産を控える若い隣人たちと交流するときもギターと歌(しかも「映画の中の」歌)が使われていて、過去が未来へ受け継がれていく軌道を指し示しているようだ。

今作はオープンな結末になっていて、ミゲルの試みがどんな結果をもたらしたのか…は、ある程度こちらに委ねられている。明確な答え(ゴール)を置かないことこそが、ミゲルたちの過去を、終わらなかった映画たちを、可能性のままに託して救うことであり、「映画にできること」なんだと…わたしとしては受け取ってみたいと思った。

今作を届けてくれたビクトル・エリセ氏がこれからどんな人生を歩まれるのか、それはわからないけれど、これが氏にとって新たなJanuary(Janus)になっていてほしいと、願わずにはいられない。

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「ドライヤー以降の映画に奇跡はない」、あああC・T・ドライヤーは『裁ジャン』以外通ってないんだよなあああ、ついこの前まで特集上映やってたけどスケジュールが鬼畜だったんだよなあああ、観てたらもっと色々気付けたのかなあああ。ヤマかけたテスト範囲が外れたみたいな気分を味わったぜ。

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※1:これを視覚化するかのような、室内を琥珀色に沈める陰影に見惚れてしまう。『ミツバチ~』を思い出す、荘厳とすらいえそうな色合い。

※2:ミゲルが仕事で翻訳(たぶん)している本にも「人はなぜ最高傑作を映画ではなく自らの人生だと決めたのか?」みたいな文章があった。
そして、作家の立場から映画の功罪を語った作品と言えば最近なら『フェイブルマンズ』。今作は海辺が舞台になっていることも手伝って、水平線いっぱい探しちゃったよ。

※3:
このような思考を小説の中で表現した作家として、米のフォークナーや英のヴァージニア・ウルフが知られる。彼らは時系列的に進んで行く語りから逸脱し、登場人物の内面で連綿と溶け合ったような時間感覚を表現するチャレンジを続けた。

この映画を観ているうち、個人的に強く結びついた文章があったのでメモ代わりに引用する。フォークナーの『八月の光』より。
" まるで過去全体がひとつの平面上にひろがる模様であるかのようだった。そして時間は、明日の夜も、すべての明日も、ひとつの平面上の模様の一部として続いて行くのだ。(中略)未来と過去は同じものだからだ。"

また、ウルフの『灯台へ』は今作と結びつけられるところが多そうで(波音の機能とか)、今は力が及ばないけれどいつか何かまとめて書いてみたい。