ウォーターライブラリー

瞳をとじてのウォーターライブラリーのネタバレレビュー・内容・結末

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

入れ子構造になっている劇中映画の冒頭とラストシーンを、実際の尺の冒頭とラストに持ってくる。この構成から、ラストシーンへの観客の関心を向けるとともに、2つの「映画の幕を閉じる」観念を表現することへの固執が見られる。これは、劇中でわざわざ映画館での上映にこだわったことからもわかる。配信もテレビもソフトパッケージも、これらの再生では映画館のスクリーンを閉じるということを実現するのは不可能であるからだ。

なぜ劇中映画のラストで監督のカチンコが鳴らなず、俳優たちのカメラを見つめる長いショットが続くのか。そしてこの映画自体がフィルムのリール音のみで終わるか。それはフィルムでの記録は終わっても、(記録媒体の限界とは関係なく)人の人生は続いてゆくということである。だからカチンコで「カット」はできないし、カットができなければ俳優はカメラを見続けるしかない。この映画上映により俳優が自身を思い出せたか思い出せなくても、その答えとは関係なく、誰もがその後を生きる。この映画が写真・フィルムといった衰微してゆく物理的記録メディアの存在をたびたび登場させることで、その存在を記録媒体として印象付けていることにも連関している。

なぜ2つの顔を持つ石像が最初と最後に印象的に映るか。これは、2つ以上の「名前」「人生」を持つという登場人物たちを象徴するものだからだ。その2つをまったく真横から撮ることで、2つが違うものでありながら、一方で共に優劣なく相等しい関係性であることが立ちあらわれてくる。