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瞳をとじての海のレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
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わたしは天国にも詩があると信じている。ビクトル・エリセは、天国にも映画があると信じているのかもしれない。きのうの夕方、この映画を観ているとき、自分がいつも映像の中の何を見ているのかが、不意にわからなくなった。目の前の大きなスクリーンにうつっているはずの人の顔も、水をたくわえた景色も、風や嵐のもとでやわらかく滲む建築も、すべてがあいまいにわたしの中にはいってきて、一瞬肩をぶつけたかたちのまま遠ざかっていく。霧雨の中を歩いているような心地だった。今朝、はやい時間に目がさめて、ねこたちさえもまだ眠っていた。しとしとと雨の音が聞こえた。もしもこの部屋に窓がなかったら、今手さえ伸ばせばこの手は濡れられるのにと考えた。ほんもののことと調和しきれず、いつまでもいすわる夢のようにこの映画はわたしを見ていて、はっきりと知らないだれかが、たしかに知るあなたとしてここにいて、わたしのからだはその輪郭をいとおしいものとして撫でようと動き出す。いままで自分がかかわってきた芸術が何だったのかというのを、キアロスタミは『24 Frames』で撮り、アンゲロプロスは『永遠と一日』で撮ったのかもしれないと、わたしは考えてきた。エリセにとってこの映画は、そういう存在であるのではないかとおもった。映画を観るということは、空っぽのうつわになってそこに座っていることではなくて、知らない人の姿が知っているひとと重なって、知らない街の家や海が自分の住んでいる街と重なって、多重露光のように、1が1ではなくなっていき、とけてまた1へとなっていく、変化し、確固となり、永久となる、そういった、個々の、極私的な、体験だと思う。映画はわたしたちにつづくもの、映画はわたしたちからつづくもの、天国にも映画はあるだろうか、天国にも詩はあるだろうか、夕焼けは、渡り鳥は、防風林を通りぬける風の音は、街の灯りは、よくしゃべる猫は、冬のだれもいない海岸は、あるだろうか。そのすべてを知る由もないこの冷たく暗い生涯で、たったひとつのことを、かぞえきれないほどの言葉をつかって話してきたわたしたちにとって、それはいつか翼で、それはいつまでも宝であることを、一生をかけて、わたしは祈る。


2024.03.16 きのうは土橋で降り、すこし市街地を歩いてみたあと、平和記念公園で1時間ほど過ごした。このあたりではあまり見かけないシジュウカラが木の上にいて、とても可愛くて、首が痛くなるまで見上げていた。隊列を組んで飛んでいる鳥たちも見た。そろそろジョウビタキやツグミも北に帰っていく。「海原を渡っていく 鳥のような心がここに在る」を思い出す(スピッツのつぐみ)。旧太田川沿いを歩いてると、野鳥観察しているおじいさんを見かけた。いぬと散歩している親子も見かけた。広島では今ハクモクレンが満開だ。春はさまざまな生物の死骸や、花粉や砂が空気中にまじっていて、それは体調にも影響してくるけれど、それでも街は温もって、生きものたちは目覚める、うつくしい季節だ。戦争反対と表明する中で、よく『この世界の片隅に』のことも考えるので、原爆ドームを見て、ひさしぶりに相生橋も歩いて渡った。うつくしい街。いとおしい犬や猫、野鳥や虫たち、花や樹木。げんきな子どもたち。それを見てわらっている大人たち。ぜんぶなくなっちゃだめで、なくならないためのことを1つでも多くしたいとおもった。あたたかないのちを感じるたび泣き出したくなる(猫の手がただ膝に置いてあるだけで、あたたかくて、生きていてよかったとおもえる)。いつまでもいつまでもうしなわれないでほしい、たましいがある。愛を信じている。光を信じている。いのちを信じている。信じたままわたしは死んでいく。それを脅かすものにわたしは抵抗する。誇りを持って。
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