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光りの墓の海のレビュー・感想・評価

光りの墓(2015年製作の映画)
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あいしているいきもののからだをこの手で撫でてみるとき、ちいさな地球にふれているような気持ちになる。たとえばねこを撫でるとき、毛なみは、重く濡れて静まる夏の早朝の森のようで、たえまなく波をうちつづける冬の夜の海のようで、息づかいや鼓動の奥には、空を飛ぶトキや、草むらにひそむコオロギや、会話をする鯨類の、声がきこえてくる気がする(貝がらに耳をあてて目をとじていた幼少期のように)、それからなによりも、たましいを受け容れている唯一のこの5kgほどのからだの中に、数えきれはしないほどの生や死やそれを超越した記憶が、光りであるこの子のいのちをいしずえにして飛び交い、沈殿し築かれ、ときには豊作を祈る声にこたえた祝福の雨のように降っているということを、深く、感覚として得るのだ。
この数ヶ月で、睡眠(ねむり)というものが、わたし自身から少しずつ剥離していき、とおく感じるものになってしまったのは、わたしと暮らしているねこが、よく眠るようになったからだとおもう。一日のうち、ほんの数時間程度しかかれは起きてこず、それ以外は眠っていて、ねむりの中にいる。病気ひとつしたことのないかれは、今も元気がないわけではなくて、ただ今年の5月がくれば9歳になるから、年齢の影響だろう。わたしの知らない、子猫だった時代にも、かれはきっと今くらい多くの時間をねむりの中で過ごしていたのだとおもう。日に何度か話しかける、「ベル、元気だよね?」「ねむっているだけだよね」「夜がきたらすこし起きてる姿みせてね」。清くて、ただしい呼吸のリズムだけで、かれは返事をする。ねむりの中で、この子はなにをしているんだろう。どこを歩いていて、どんなかぜを感じて、そこはどれくらいの気温で、そしてどんな姿で存在しているんだろう。そこにわたしはいるの。あなたをたすけてあげられるの。ねむりの中にいるあなたは遠い。会えない人よりもずっととおい。
わたしにとって、この映画は、その悲しさ、あるいは、まだ名前のない感情や感覚を、ただ“そこに存在しているもの”として時間をかけ、治療のように、しずかに共有してくれるあいてだった。アピチャッポンは『MEMORIA メモリア』についての話の中で、「境界や国境という認識は、われわれを分断し、憎悪や無理解のきっかけとなるが、それに対抗できるのが映画(作品)だ」というようなことを話していて、わたしはそのとおりに、テクノロジーへの反抗や社会とそれをつくる人々への怒りや自分自身が他人を無視できないことでうまれる苦しさを、自分の世界から一瞬で追い出してしまえた。いつも木肌を凝視するとき、おもっているのは、生命の美しさは見た目が整っていてきれいであることとはほとんど無関係であるということだ。それとあまりに近い印象を、アピチャッポン作品からわたしは受けとっている。ゆうがた、ねぐら入り前のムクドリの群れはキュルキュルとせわしなく鳴くけれど、起きているあいだ、言葉をかわし、何か言いたげなかおのまま別れるわたしたちは、かれらにならっているのだろうか。ねぐらの漢字が、土と時で成り立っていることを、かれらに教えたい。はなしをすることは、わたしたちが、互いにどんないきもので、どんな運命を持ってうまれたのかを、伝えあい分けあうことでもあるように、いまは感じる。
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