Habby中野

哀れなるものたちのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

NTRは大嫌い。だから早くこの話題が早く終わってほしい、と苦しみ願い続けて気がついたらエンドロールだった。ずっと、映画なんて見てる場合じゃなかった。戦いのようだった。何との?……自分との……。
映画は、というかそもそも世界は、他者そのものだ。この身体が触れた側から無限に裏返っていく世界。そんな世界が、「他者」の自覚を持って自分の前に現れたら─もっと言えば、”自己の萌芽とともに他者の存在を知り、またそのことが他者の中に彼女の他者性を自覚させる、広義のNTR(広義のNTR?)”を自覚させる存在が現れたら─、混乱とともに全てが収斂する自己に目を向けざるを得ないじゃないか。(混乱してきた)。寝取られはつまりは手の届きようのない他者性の自覚への苦しみだ。分かってる。でも止まることなくエゴの芽はすくすくと育つ。外で見たものがこうして内へ内へと向かっていく。それが異質で異形で異常であるがゆえに/あればあるほど、この身体との乖離性は浮き彫りになり、深まっていく。スクリーンに反射する自分、映画の中の自分、ではなくてすべてが自分の中のものになっていく。この距離でさえも。こんなに内省的になることは、今までなかったのに。
彼女は世界を見たいと言って出て行った。そして自己を獲得/確立して、他者を意のままに操る存在として帰ってきた。”世界”はそこに生まれた。僕はと言えば、有刺鉄線デスマッチのような世界の端に触れるたび傷ついて、どこへ行くともなく、他者を妬み勝手に苦しんでいる。他者が自由と権利を─まるで人間のこれまでの歴史のように─それを一人に背負わせることの重みと哀れさとととに─獲得していく様を、ただ見て、自らに返す。繰り返す。これを永遠に繰り返す磔刑といま捉えるか、そこに生まれ得る思考を手にする(ことができる)のか

苦しみ願い続ける中で、〈世界を見たいという純粋な貪欲さを愚かだと見做し、その未発達を異形だと見放していた一方で、NTRを恨み、世界を知り、苦しみ、抗って成長していく姿を妬んでいた自分〉が確かにあった。それはあまりにも貧しいことで、彼女にまとわりつく男どもと同じく目も当てられない哀れさだ。彼女の尊さに反射する自分の浅はかさ、愚鈍さ。阿呆、頓馬、無稽、愚劣。しかしこうして他者に触れたときに震えるのが初めて自分であるのならば、脳みそは”まだ”ここにある。他者を他者だとし、自分を自分だと言えるぎりぎりの崖っぷち、立つ白波。ラストカットのあの瞬間、そこにだけ自分が


「世の中ってさあ── けっこう「プア」だよね──!!」
『[poor]ゼラニウムの誘惑』(郷田マモラ)
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