Aya

月のAyaのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.7
#twcn

アノ小道具と夜空の🌙とタイトルが重なるシーン見事でしたね。

自分は恵まれてるな、と思いました。
だってさとくんの言ってることがまったく分からへんねんもん。

希望がなければ生きてはいけず不安は絶望へ直結し、人生に最も重要なのは"気やすめ"である、という印象です。

あのようにしか考えられなかったり、あのような施設がある、というのは普通にありそう。

医療安全の観点から見て『えー?!?!』の連続ですよね…
たしかにわたしは病院や医療関連施設での経験はいろいろあるけど、福祉施設に勤めたことはない…

あ、噛まれたり殴られたりは普通にしてますw
みんなしてます。

いいってわけではないけど『仕方ない』んですね。

てか石井裕也監督めちゃおっとこ前ですね!
失礼ながら存じ上げてなかったのでビックリしました。

そら満島ひかりと結婚できるわ…

さとくんの気持ちは理解できないので宮沢りえさん夫婦の子どものお話の方が"感"じやすかったですね。

ちょっと気になったのですが、いや、あの、オダギリジョーはさ、産む時リスクないけどさ、宮沢りえさんはさ、最悪なことも考えられるんやで?

男女論の話になってきますが、最初は宮沢りえがオダギリジョーの事を見下し過ぎでありえへん…と思ってたのですが、いい塩梅にオダギリジョーがガチで頭悪いんですよ…

回転ずし5万円も食べられへんて!

男はリスクなく何者かになれるのでいいですね。

と言いたいところですが、私も35歳くらいの時にこの先もしパートナーなどが出来ることがあれば養子を迎えたいな、と考えてるので女もリスクなく何者かになれる世の中。

"生産性"ってなに…

基本、人間に生産性なんてないよ…ある人の方が稀だよ。

さとくんの理論で言うと『きゅうりを食べないAyaさんにとってはきゅうり農家は生産性がない』ってなるやんか!!

結局は自分と違う他者への区分けというか。
今回やと障害のある方への差別やと思う。

さとくんは異なるものに対して何か強固な意志を持ち理解することなく"諦める"という着地点にものすごくストレートに到達するのでめっちゃ怖かったです。

ピッチもずっと充電中でみんな持ち歩かないからすぐに助けも呼べないやんか!

現に宮沢りえさんが『〇〇さんの部屋から大きな音が』言うてスタッフの方探し回ってたやんか…

でもコレね、実際にそのような状況下であったとしても加えられた演出やとしても、被害者に失血死の方が多い点から見て『通報が遅れた』要因となってるので説得力がありすぎてものすごく胸が気持ち悪くなりました。

スタッフの方が誰ひとり名札をつけてないのも演出面と実際の事件と両方に照らし合わせることができる。

実際に名札つけてなかったのなら医療安全的にアウトだよ。
ああいう危ない人が何時何時誰でも入って来れるし紛れ込めるし責任の所在が有耶無耶になるんですよね。

演出としてつけてなかったのなら、無名化と解釈できる。
逆に入所の方には名前やあだ名があり"個"が示されているので『より人間としての存在を明確にする』意図とも考えられる。

どちらやとしても両方やとしても頷けるので上手だな、と思いました。

さくくんのやってる格闘技はあまり下半身があまり映らないのですが腰のひねり的にキックボクシングやと思ってた…ムエタイなの?!

私はアーミー系(厳密に言うと焼火器系)なのですが犠牲者の多さが凄いな、と本気で思ってます。

260人の人間を1人でどうこうしよう、と考えるとたぶん多くの我々のようなヲタクは『爆弾を作るor火薬を使う』になるのに全部、飛び道具すら使わず素手でって考えるのめちゃくちゃ素人っぽいですよね。

それでも19人…凄いと思う。
銃で狙うにしても絶対飽きる…

京都シネマさんにてTI(ティーチ・イン/舞台挨拶)に参加したのですが、映画のテーマや中身の重みを表現するためか撮影時のおもしろエピソードなどは披露せずに真剣に語られる監督を前に『作家のオダギリジョーよりニートのオダギリジョーを養いたいです!』とはとてもお伝えできなかったです。

ただ一点気になったことを質問できました。

Ayaさんの父の影響で手話が少しわかるのですが、聾の方が家族や友人にいるわけではなく手話がわかるので手話を使う方と会話できる⇒親しく成る機会がある、ということがあります。

さとくんのガールフレンドが聾の方で手話で会話していたので彼の場合はどうだったのか?

と伺うと

『彼女と付き合ったからさとくんは手話を覚えた』

と教えてくださいました。
これが映画の話なのか元となった事件でも同じだったのか(たぶん違う)ニュアンス的にどちらともとれる答え方やった。

手話って言語なんですよ。
英語ができるとか韓国語ができるとかDPCコードが読めるとか(えっ)それと一緒なんだよ。
自分で言うのもなんですが、できないよりできて困ることはないと思う。

さとくんは好きな人とのコミュニケーションのためにたぶん、いちから新しい言語を覚えて使う努力の出来る子なんですよ。

彼は言語という武器を持ってるのに仕事場でパワハラを受ける理由を『自分がダメだから』って卑下したり、極端に『いる・いらない』の2択でしか考えられなかったり…なんて視野が狭いの…

彼女との未来に『障がいのある方が必要ない』と思ったの?
そのために『自分が消さなければならない』と思ったの??

そうだとしたら理にはかなってるんやけど全部自分主観やん。

彼女がどう思うか?
どうなるか?
どうしたいか?

どんどん見た感じヤバくなっていくさとくんを彼女は心配して言葉をかけてくれるのに、それが彼にとって『彼女を悲しませたくない』という理論にいきつかなかったのが不思議であり悲しくて…たぶんもう誰の声も届かないんやろなあ。

ちなみに手話は覚えると結構便利に使える言語ですよ。

声の出せないシチュエーションて結構あるじゃないですか?
映画館で映画観てる最中に会話したり仕事中離れたとこにいる人とも話せるしバスの中でもビデオ電話で会話したりしてますw

て、てか!!

『愛してる』なんて久々に見た!!!
ほら、日本人同士の会話やからあんまり外でも見ることないし歌の歌詞とかぐらいでしか目にしないからさ…

ちょっと胸キュンだよ!
ビックリしたよ!!

京都シネマさんに初めて舞台挨拶に来られる方はほとんどみなさん同じリアクションされるのですが『1列目の座席(お客さん)めちゃ近い!』っておっ!ってなってはって可愛かったw

ちょうど目があったので『すんません近くて』と会釈したら『いえいえ』と笑顔で会釈してくださったの…ええやろ?

ただ、これ以後一切目が合うことがないどころか前の方とスクリーン向かって左側は全く見てはりませんでしたw

※京都シネマさんのシアター環境についてAyaさんは無関係です

ロビーにいろんな媒体の記事が飾られていたのですが、森達也監督の今作に対する記事の中で『生きるに値する存在と値しない存在という考え方は間違いとされている』という文章を読んでものすごく日本人ぽいな、と思いました。

これはたぶん儒教精神的な"考え方"で"理論"ではないんですね。
日本には宗教はないのでこういうとき持ち出すべきなのは観念的な道教精神かな、と。
カトリック的な『人はみな等しく神の子』という示しとも違って『弱きを助け』の精神性の社会が作られてるじゃないですか?
なう。

社会とは異なる人々の集まりなのですが日本は島国なので長らく『異なる』という概念がなかったように思います。
これは映画にも言えて。
さとくんも他者への無理解に無自覚な部分がある。

私は理解はできないものの、さとくんみたいな人がいるやろうな、とか彼がそのような"感覚"を持ってしまう要因について考えたりは"出来る"んですよ。
でもそれは恵まれてるだけで逆に"出来ない"人がいる"社会"について考えないといけない。

社会とはそういうものです。
個の問題というよりは個の集まりである社会の問題やと思う。

だってもう大人だから誰にも『きゅうり食べなさい!』って強制されたりしないしお料理で出されても隣のひとのお皿にさっと乗っけてしまうので、私は生きていく上できゅうりやきゅうり農家がなくなっても何も変わりはないです。

でもそうでないひともいる。
これは当たり前のことなんですよ。
ひとは違うのが当たり前だし理解できないことがあるのも当たり前。

でもそう考えられない人が極端な行動に出て他人を傷つけるのを"仕方がない"では済ませられない気がします。
何が出来るのかよくわからないけど、、、

Aya

Aya