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アントニオ猪木をさがしてのKKMXのレビュー・感想・評価

アントニオ猪木をさがして(2023年製作の映画)
3.9
 賛否両論、というか否が目立つ本作。先日も高田延彦がツマランと言及してプチ炎上、すると本作擁護派の永田さんが高田を「いいんだね、殺っちゃって」イズムで老害と一刀両断。このように場外では爆死映画のど真ん中な乱闘が繰り広げられております。
 そのような中で、紙プロのジャン斉藤氏が「ゼロ年代以降の暗黒時代を潜り抜けてきたファンはそれなりに見られたんじゃないか」との言及があり、まさに自分はこれに当てはまると判断、鑑賞に舵を切りました。

 『格闘技世界一』の感想文で言及しましたが、自分にとって猪木と言えば新日本プロレスを地獄のど真ん中にブチ落とした老害というのが元々のイメージです。自分が日本のプロレスを観始めたゼロ年代初期、ちょうど当時はノアの小橋・三沢がプロレスの金看板を守っていた一方で、新日は猪木の介入でめちゃくちゃに。猪木一派が居なくなってから、外部企業のユークスとその次にブシロードが入ってきて棚橋が新日をV字回復させ、現在の安定した新日になりました。

 自分はそれなりにプオタですが、基本的にロック/ストンコのWWE(当時はWWF)でプオタになり、いわゆる昭和プロレスとは無縁。プロレススーパースター列伝は初めからギャグ漫画として読んでおり、当然続編(?)の『プロレス地獄変』の方が好き。現在ではスターダム一推しで、猪木はねじれの位置にありました。
 とはいえ、『格闘技世界一』を観て、猪木の天才的な格闘センス(特にグラップリング)やプロレスラーとしての華、上記作品とは関係ないけどグレートアントニオをガチ処刑した制裁マッチの狂った感じ等にグッときて、リアタイならば絶対ファンになったな、と言えるくらいに関心は出てきております。なのでわざわざ鑑賞したわけです。


 で、感想ですが、映画としての出来は非常に悪いものの、個人的には悪くなかったです。ホント、ジャン斉藤氏の言った通り、2000年以降の新日の動きを見ていた自分にとってはなかなか良かったです。


 何より、棚橋が良かった!棚橋は猪木が介入したゼロ年代初期の新日格闘技路線に真っ向から異を唱えてピュアなプロレスを守った人です。棚橋がプロレスの灯火を死守して、その後ユークス/ブシロードが参入して現在の21世紀型のプロレスが形作られたと自分は考えています。
 2002年の札幌の猪木問答で、棚橋は「新日のリングでプロレスをやります」という宣言は、今見るとまさに棚橋の生き様を象徴しており、棚橋の言葉がいかに厳しいものだったかがわかります。どん底に落ちた新日を棚橋が支えて、今を作り上げたワケですから。
 棚橋はおそらく猪木が介入しなくなったタイミングくらいで、新日道場にあった猪木のパネルを外します。いわば棚橋は新日を生み出したものの新日をめちゃくちゃにしていた老害・猪木を否定することで、新しいプロレスを創造しようとしたのでしょう。まさに、棚橋の生き様からは闘魂を感じましたよ!本作を観て、改めて棚橋はカッコいいと思った!スリングブレイドは微妙な技だと思うけど。

 あと、印象に残ったのは若手・海野翔太の「怒りはない」という言葉。猪木はプロレスを認めない世間、ジャイアント馬場を上位とみなす社会への怒りをモチベーションにしていた人だと思うし、棚橋はそんな猪木への愛憎をベースにしていたと推察できますが、その流れから完全に離脱して、怒りのないプロレスをする海野翔太に興味出ましたね。
 実際、新日の歴史は怒りをベースにした擬似的な父と子の対立が中心だったと思います。猪木には力道山との父子対立があり、その後は猪木が父となって前田、後年は橋本あたりと父子対立を再現していたように思います。天才・武藤は「エディプス葛藤とかアホらしいぜ」みたいな態度でサッサと新日を去りましたが、棚橋は猪木の末っ子としてちゃんと対峙したんだなぁと感じました。そんなリベラルな棚橋という(擬似的な)父を持つ海野は、怒りをベースにしない父殺しをこれから演じていくのでしょう。それはとても楽しみであります。

 また、シンプルに藤波と藤原組長のコメントは面白かった。藤波はホントに猪木に憧れていて、彼のピュアな人柄が伝わり、微笑ましかったです。組長は流石にダンディで、複雑な人間・猪木を受け止めて愛していたように感じ、やはり組長カッケェなぁと感じました。


 そして、個人的に感じていた『受け身のエンターテインメント』としてのプロレスが伝わってきて、それが何より良かったですね。

 この映画、途中で3本の超低クオリティの寸劇が入り込みまして、ひとりの猪木マニアの少年が大人になるまでを描いております。この寸劇、内容も脚本も演出も反吐が出るほどダサく、寒かった。ラストに至るまでで良かったと言えたのは、後藤洋央紀がエロビデオを発見して100万ドルの笑顔を見せるシーンだけという(しかしこの時の後藤の笑顔はマジあり得ないほど最高!まさに昇天・改)、ゴダールの『ワン・プラス・ワン』の寸劇に次ぐレベルの最悪さでしたが……実はラストだけはとても良かったのです。
 ラストシーンは、職を失い、家族を養うために肉体労働系の他職種に転職した主人公が、たまたま見つけた猪木vsベイダーの試合に、逆境の自分に重ねて、心の中で何かが立ち上がり、再び人生に対して前を向くのです。

 プロレスにおける受け身とは、ショーマンシップで盛り上げる必要があるからなのですが、それ以上の意味があるように思えます。
 人は生きていく上で不条理に襲われます。しかし、それでも人は嘆きつつも、恐れつつも、その宿命と向かい合っていこうとするのではないか、と思います。すなわち、受け身を取ることは、時に訪れる不条理な運命と向かい合い、人生を誠実に生きることではないか、問いかけてくる課題から逃げずに正面から闘いを挑むことではないか、と思うのです。そしてそれをショーとして見せるのがプロレスだと考えています。

 この低レベルの寸劇のラストには、このプロレスの本質が描かれていたと思います。何故ならば、猪木自身が不条理に受け身を取り続けて闘い続けたからではないか、とも感じました。極貧のブラジル移民時代、常に先輩・馬場と比較されて後塵を拝させられる世間からの視線、常に軽んじられるプロレスというジャンル……これらと向き合い、受け身を取って逆襲し続けたのが猪木だったのではないでしょうか。
 猪木vsベイダーを一番観た試合と語る棚橋も、ゼロ年代初期のプロレスを襲った不条理な状況に、それでもプロレスをやり続ける、と受け身を取り、そして苦難の時代を経て見事に逆襲に成功したのです。
 ゴミのようなクオリティの寸劇でしたが、自分は最後の最後で感動しました。まるで、これまでボロクソにやられながらも最後の最後で電光石火の起死回生をキメる鹿島沙希のような寸劇だったと思います!
(鹿島ちゃんは俺っちが一番推している女子プロレス団体スターダムの選手であります)


 このように、グッとくる面の多かった映画でしたが……寸劇含めて、クオリティが雑というか、全体的にテーマが散漫でダラダラと作られており、観ていて結構キツかったです。棚橋のくだりとかすごく良かったのですが、一方で寸劇の9割9分は酷すぎたし、猪木と深い絡みをした選手のコメントが藤波と組長だけなのも残念すぎました。フワッと適当な題材を提示して「アントニオ猪木をさがす」と言ってしまうのは、なんか違うだろ、と感じました。
 これはこれでアリだとは思いますが、もう少しちゃんとしたドキュメンタリーも観たいですね。猪木関係者の語りから多角的に猪木を浮かび上がらせる王道アプローチの作品が欲しいところです。やっぱり、猪木がハマった詐欺の話とか組長の笑い話だけでなく、迷惑かけられた人たちの話を聞きたいところです。
 あとさ〜、一緒に北朝鮮に行ったゴマシオにも出て欲しかったね!次はゴマシオとミツオが登場するドキュメンタリーのど真ん中を期待!カ……カテエ!


【追記】
 ちょうど蝶野のインタビューを読んでいて、蝶野によればユークスは猪木一派を排除したものの、同時に古参ファンも排除したとのこと。古い世代のファンにもアプローチすべきだった、と批判しています。本作における評価は、古いプオタ→否定/新しいプオタ→肯定、みたいな分裂が起きているっぽいですが、これはまさにユークスの方向性と酷似してます。

 どうやら、棚橋以前/以後でプロレスファンの質は大きく変わったのかもしれません。猪木世代のファンはケーフェイ(結末が決まっていること)にこだわり、ヤオガチみたいな言葉をよく聞きますが、棚橋以降、それこそ海野とかを推してる若いファンはケーフェイとか意識してなさそうです。プロレスの質が勝負論からプロセスに向かって行き、楽しむポイントが旧世代と新世代ではまったく異なるのではないでしょうか。

 この分断は、やはり棚橋革命が大きいように思えますが、四天王と三銃士のプロレスも価値観の転換に影響を与えていそうです。小橋や三沢の闘いは、とにかくその凄まじい内容こそが語られており、結末はさほど語られていないように思います。武藤や蝶野も、その華やかさやムーブの凄さ、演出の上手さが語られているように感じます(橋本はすべて規格外なので保留)。
 四天王・三銃士世代は、ボリュームゾーンではありますが、実はプロレス過渡期のファンかもしれないな、と感じました。猪木世代よりも現代のプロレスにアジャストして楽しめている人は多そうです。

 社会学的な時代の分類ですと、日本だと95年を境に大きな物語を喪失し、それ以後は小さな物語を生きる拡散した時代に入っているそうです。父性が失われて、反抗の意味をなさなくなり、ネガティブな感情の質が不満から不安に変わって行ったとのこと。世界的にも同じような流れがあるそうですね。
 95年は奇しくも高田vs武藤の年であり、この試合が日本において勝敗がプロセスを凌駕する、猪木的な勝負論を持った最後の試合だったと思います。その後、日本のプロレスには勝負論を持った試合は無くなり、むしろ小橋三沢のようなハードな受け身で感動したり、武藤蝶野のような洗練されたエンタメ性を楽しんだりする時代に入ったと思います。
 その後に行われた勝負論のプロレスである橋本vs小川は上手くいかなかったと思います。その後は2人の友情物語に収拾し、ポスト95年のプロレス的展開を見せました。

 本作はポスト95年の価値観の元で作られていると思います(猪木vsベイダーで、ベイダーにボロカスにやられて立ち上がる猪木に寸劇の主人公は反応している。プレ95年であれば、勝利した猪木に感動するだろう)。なので、プレ95年のファンにとっては肌に合わないのではないでしょうか。
 プレ95年の価値観を生きた最後の男であり、武藤とヒクソンに価値観も含めて葬られたと言える高田延彦が本作をdisるのは宜なるかな、そして95年問題の過渡期に振り回されまくった永田さんが「いいんだね、殺っちゃって」モードになるのもさもありなんです。
 もちろん、ドキュメンタリーとして低質という、一番重要な問題は見過ごせませんが🤣


【さらに追記】
 不満の時代と不安の時代という分類は、まさに猪木と棚橋に合致するな、と感じました。そして大きな物語のある時代を生きた猪木は巨大なカリスマになり、小さな物語の時代を生きている棚橋はかなり小ぶりなカリスマなのも、この時代分類の構造にフィットしています。

 猪木はまさに不満の時代を生きました。不満をベースに日本は高度成長を果たしたと言えます。同時に抑圧もわかりやすく、上の世代との闘争がベースになっていたと思います。不満を抱えた人たちが、猪木のわかりやすい闘争を観てエンパワーされていたのでしょう。

 一方で、棚橋は不安の時代の申し子です。ゼロ年代初期の新日は猪木の介入でメチャクチャになってましたが、それだけではなく、MMAの台頭など、プロレス自体が揺るがされていました。棚橋を巡る環境も、不満の背後には得体の知れない不安が渦巻いていたのだと思います。これからどうなるのか、プロレスラーとしてどう生きていいのか……
 不安は対象がありません。対象があると恐怖になったりしますので。棚橋は不安を抱えて生き抜いたのだと思います。その結果が、たまたま当時の猪木否定になっただけで、不満をベースにした父性への強い反抗は程度として弱かったように感じます。棚橋の「愛してます」というキーワードも、怒りと不満を持っての外部へのカウンターではなく、不安に押し流されないために内側にぶっとい幹を作る方向性があるようにも感じます。

 棚橋が猪木のようなスケールを持たないのは、単純に時代背景が原因でしょう。大きな物語がなくなって全体的な方向性が失われ、拡散した状況となれば小さなムラでのカリスマになるしかないのです。多分、今の時代で絶大なカリスマになるには、飛び抜けた競技的な天才だけだと思います。おそらく、武藤が現代で活躍しても(今もピンピンして毎日SNSで美味そうなモノをアップしてますが)、変わらずめちゃくちゃカリスマになったと思います。でも、そんなのは超絶天才の武藤くらいでしょうね。

 自分はロスジェネで不安の時代をずっと生きてきたため、やはり猪木よりも棚橋に共感しますね🌹
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