イスケ

DOGMAN ドッグマンのイスケのネタバレレビュー・内容・結末

DOGMAN ドッグマン(2023年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

ジャケ写、何かに似てるなぁと思ったらあれだ。ローリー寺西だ。


二トラムに続く、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズの快演。

しばらくは普通の役ができないんじゃないかと思うほどイッちゃってる配役が板についてきている。演技で作品に呼び込める役者だよなぁ。


DOGとGODの反転が物語の肝。
犬たちにのみ絶対的な信頼をおくダグラスからすれば、人間はおろか神ですら信頼できる対象ではなかったわけだ。

であれば、ラストシーンの意味は「不平等な神よサラバ」という、神との決別とも言えるよね。

リュック・ベッソンは無神論者らしく、それを知れば、ぼんやりとメッセージの輪郭が見えてくる気がする。


同じく闇堕ちの物語であるジョーカーにも似た雰囲気を持つ本作。

人間が闇に堕ちていく際には、過去のトラウマが大きく作用する。
ダグラスが闇に向かう大きな転機となったのは、サルマとの交流であることに疑いはない。

人との交流に慣れていなかったダグラスに優しい言葉をかけてくれ、ひとりの人間として認めてくれた。
さらに久しぶりの再会では、自分の行動に心から喜んでくれて、唇にキスまでしてくれる。
この時のダグラスの幸福感は人生のピークにまで高まったはずだ。

でも現実は違った。大きな振り子がもたらす絶望の大きさ。
初めから相手にもされていなかったら、絶望なんて感じることもなかっただろう。

万事がうまくいっているように感じていた。間違いなく彼女は自分に好感を持ってくれていると思っていたのに……

「幼少期に傷ついた心とこの体では、何をしたって上手くいくわけがない」

サルマが悪人ではなく善人だったからこそ、
関係性も良好だったからこそ、彼は自分の人生の天井を感じてしまったのかもそれない。

こうして彼は、自分自身ではなく自分の外側の「何か」に責任を求めるしかなくなり、社会や神へ責任を転嫁していくことになったのだろう。


ダグラスは犬との友情に支えられていて、確かに愛情も注いでいた。
しかしながら、犬に精神を支えてもらうのみに留まらず、思いのままに動かしていく様子は、彼自身もGODだったと言えないか。

事実として、犬たちに富の再分配の実行犯や相手への攻撃をさせることは、自分の責任を犬に負わせていることに他ならない。
精神科医の先生にそのようなロジックを伝えるシーンもあり、やはり自らが抱えるべき責任から逃げていたのだと思わざるを得なかった。


ダグラスが責任を外側に求める一方で、似たような状況を抱えていても自らの力で人生を切り開いている人もいる。
それが精神科医の先生で、ダグラスと対になる人物と言える。

そんな先生と接し、自由意志の話をした。
そこにはきっと神を信じることに懐疑的なリュック・ベッソンの思想も多分に入っているのだけどw、神に委ねることは責任転嫁だという想いも滲んでいる。

「人間は自由意志を持っている」と考えることは、「自分に責任を持つことによって、どのような生き方でも選べる」ということと同意だろう。

苦しい生活ながらも自立をして真っ当に生きている先生を見て、ダグラスは感じるものがあったはず。
それ以上に、対話を通じ自分の人生を語ることで強制的に内省をしたことが、心の中に変化を起こしたのだと思う。


ラストシーンで、ダグラスは自分の足で立ち上がってみせた。
これは、闇に堕ちた理由を社会や神のせいにするのではなく、自分自身の力で立ち上がるというせめてもの意思表示だったに違いない。

「不平等な神よサラバ、そして過去の俺もサラバ」

決別したのは、神だけではなく、これまでの自分自身だったのではないかと思えた。
イスケ

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