レインウォッチャー

Hereのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

Here(2023年製作の映画)
4.0
祖国への帰郷を計画中の青年と、苔の研究者の女性とが出会う。
監督前作にあたる『ゴースト・トロピック』でも《物語未満》と書いたのだけれど、更に削ぎ落されている印象。2人は出会った、しかしSo what?に応える結果はない。その清らかさ。

寡黙、静謐、瞑想的。そんな言葉が度々めぐる中、青年シュテファンが帰郷に対して必ずしも前向きではないらしいことは徐々にわかってくる。
でもその経緯・背景は明確には語られないし、学者シュシュがどのような想いで顕微鏡をのぞき、フィールドワークに勤しんでいるのか、もまた同様だ。

彼らが交わす言葉も、過ごした時間もごく限られている。最後まで見届けても、2人の出会いがシュテファンの選択や行動に何か影響を与えたのか、はわからない。

ただ、映画が虚を突かれるようなタイミングで終わるとき…
そこにはひそやかな予感だけが残されて、それがわたしは堪らなく愛らしいと思えたのだ。

多くの時間、多くの面積が、《緑》のために使われる。
シュテファンはブリュッセル、つまり都会の建設現場で働く労働者なわけだけれど、すこし足を延ばせば緑に溢れていることに少なからず驚かされる。すぐ横を列車が通る(はずの)中、自然公園はじゅうぶん森と呼べそうな環境になっていて、気づけば文明の音を置き去りにする。

葉鳴りが教える風のかたち、鳥や虫がが交わすうわさ話の暗号、夜がたまりかねて取り落とした雨の粒。合間には、『ゴースト・トロピック』から通ずるギター中心の劇伴が補色を添える。
細やかな音響のコントロール(※1)によって、シュテファンとわたしたちは同期し、うまく言葉にできずにもつれた何かが外へ流れてゆくような感覚を味わう。これは映画館で観られたことが本当に大きいだろうな。

視点は時に上へ、時に下へ。ふと出会ったシュシュによって与えられた、苔を探すミクロの視点。
ともすれば自然系ドキュメンタリーとか呼ばれそうなアンビエントな画が続くけれど、ここには確かに《詩》があって、台詞として現れる言葉以上に映画を語っているように思う。

今作を観たあと、つい『苔の話 小さな植物の知られざる生態』(※2)なんて本を買ってしまった。秋山弘之氏なる植物分類学者が、苔の出自・性格・魅力について学術的かつ偏愛的に語り尽くしている。
ロジックとエモーションがせめぎあって色々おもしろい記述に満ちた本だったけれど、つまるところ苔たちというものは「どこにでも生きられる」(※3)らしい。また、復活草という特性をもち、極度の乾燥時にも《受容》という選択をとることによって休眠状態に入り、再び環境が整った暁には「生命活動を再開」できるのだそうだ。

これらのことを踏まえると、シュテファンとシュシュ(むしろ苔)との出会いの意味がより具体的に見えてくるかもしれない。
引き払いの準備を進める部屋で、ふと「ここが俺の家だ」と呟いたシュテファンは、やはりこの場所を離れる踏ん切りがつかないように見える。スープをつくって親類や友人に配るのは、挨拶であると同時に彼の存在証明、《胞子》だったのか。

一方で、シュシュが教えてくれるように苔は根を持たず、そして上記の通りどのような場所においても工夫を凝らして生き、あまつさえ水を蓄えて小さな森としての役割を果たすのだという。そんな苔の《生きざま》が、シュテファンに与えてくれた勇気は意外なほどに大きかったのかもしれない。

これも『ゴースト・トロピック』と共通する要素として、主人公たちの立場はアウトサイダー的だ。シュテファンはいわゆる出稼ぎ労働者のようだし、シュシュはアジア系(たぶん二世)。『ゴースト~』も今作も、彼らの柔らかい連帯(※4)が思いやりの価値を思い出させ、限られた時間に特別な美しさを与えている。

小さき者たちへの慈しみにも似たまなざしと敬意がバス・ドゥヴォス氏の映画にはあるようで、それはそのままシュシュが苔を見つめる振る舞いと重ねられる。顕微鏡サイズの世界に広がる、エメラルドの万華鏡のごとき可能性。それは人の心そのものでもある。この映画がもたらすグリーンの余白に、少しでも気付くことができて本当に良かった。

最後に『苔の話~』の中から、あまりにもちょうどよい文章があったので拝借して終わろうと思う。
" (前略)見えているのに見えなかったのです。でもいったん気になりだしたからには、これからは至るところに苔の姿に気付くはずです。"

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※1:ここ最近、『PERFECT DAYS』『コット、はじまりの夏』続いて今作と、《葉音映画》がやたら豊作。そしてどうやらわたしはそれにめっぽう弱い。

※2:https://amzn.asia/d/d5rKCmz

※3:"氷河と海水中以外ならどこにでも"、"低地から高地、そして酷暑から極寒まで"

※4:シュシュがナレーションで語る、「目覚めたとき暫く周囲の物の名前が思い出せなくなった」話にも示唆がある。名前という境界をひととき失ったことで、一体感を覚え、癒しを見出す。シュテファンとこの映画がもたらす感覚にも近く思えるし、どこか東洋的な発想でもある。