耶馬英彦

ゴールド・ボーイの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

ゴールド・ボーイ(2023年製作の映画)
4.0
 社会がスラム化すると、犯罪は低年齢化する。衣食足りて礼節を知るという諺の通りだ。貧しくなって、しかも収入増や生活向上が望めない状況だと、人は犯罪に走ったり、自殺したりする。共同体の中で犯罪が増えると、取り締まりなどに人と金を使うことになって、非生産的になる。
 犯罪を防止するために、共同体は取り締まりを強化するが、大抵はいたちごっこになる。犯罪を根本的になくすには、経済的な平等を実現することだが、平等と自由のパラドックスといって、平等を優先すると自由を制限することになり、自由を優先すると不平等になる現象がある。
 このテーマは、既にフランス革命時に深く考察されていて、自由な社会が平等を実現するためには、友愛が必要だという思想から、自由、平等、友愛の3語が革命の標語となった。現代社会に決定的に欠けているのが、この友愛ではないかと思う。

 今年(2024年)の2月には、中学生の少年少女が大学生を相手に美人局をしようとして、結果的に転落死させた事件があった。この事件だけで決めつけることは出来ないが、日本でも格差が進んでいるのと比例するように、犯罪の低年齢化が進んでいる可能性はある。

 愛著(あいじゃく)という言葉がある。仏教では煩悩のひとつだ。他人や動物や物に愛着を覚えることで、名前をつけると愛著は更に深くなる。他人を傷つけることは違法行為だから、誰しも抵抗を覚えるが、対象に愛著があると更に抵抗は大きくなる。家族や友人を殺すのは、心のハードルが高すぎて、一般的には至難の業だ。
 しかし平気な人間もいる。ひとつは慣れである。日中戦争時に日本軍の兵士は、民間人である中国人を縛り付けて銃剣で突き殺す訓練を強要されていたらしい。映画「日本鬼子」では、元日本軍の兵士だった人たちが、赤裸々に告白していた。だんだん平気になるというのだ。立場は異なるが、親に殴られて育った子供は、人を殴るのが平気になるらしい。これもある種の慣れだろう。
 もうひとつは、幼い頃に母親をはじめとする他人との信頼関係を築くことが出来なかった場合である。信頼関係のない人間に対しては感情が動かされないのは普通のことで、関係性がある人間の死には動揺するが、赤の他人の死には同様しないものだ。しかし中には親兄弟の死に対しても心を動かされない人間もいる。

 本作品を観て、トルーマン・カポーティの「冷血」を思い出した。人が冷酷になるためには、自分に無限の自信を持つというか、ある種の全能感のようなものが必要だ。自分が他人にどんなに酷いことをしても、他人からはされることがないと無条件に信じていないと、他人を傷つけたり殺したりすることはできない。
 歴史的に言えば、英雄の資質である。たくさんの人間を殺したり負かしたりすると英雄になる。英雄になれば、他人からも共同体からも非難されることはない。そんなふうな思考回路は、もはや病気である。自己愛性パーソナリティ障害と言っていい。先ごろ射殺された暗愚の宰相も同じ病気だった。

 原作の中国語は「坏小孩」である。直訳すると「悪ガキ」だ。彼の心の底には、決して消えることのない怒りの炎が燃え続けている。怒りを表に出すことはないが、時々癒やしてやる必要がある。そのためには誰かを傷つけなければならない。その激しい怒りが自己愛性パーソナリティ障害と結びついたとき、悲劇は起きる。
 そんな「悪ガキ」が増えれば、共同体は崩壊する。世界の共同体で同じことが起きている気がした。つまり、世界はいままさに崩壊しつつある訳だ。空恐ろしい。
耶馬英彦

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