この『リッチランド』はほんとは昨日の夜に感想文を書こうと思っていたんだけど、昨日の昼間に観た野田秀樹の最新作『正三角関係』が本作とちょっと被る内容で一度完成イメージができていた『リッチランド』の感想文が再シャッフルされて書けなかったんですよね。そんなこと言われても知らんがな…と思われるだろうがまぁこの部分は俺の日記的な記録ということで一つご容赦願いたい…。
まぁこの書き出しですでに野田秀樹の『正三角関係』のネタバレを若干してしまっているような気もするが気にせずに進めると本作『リッチランド』はクリストファー・ノーランの最新作であり公開後よりも公開前に話題になってしまっていた『オッペンハイマー』でも語られていた原爆の研究開発のために作られたワシントン州南部にあるハンフォード・サイトという施設で働く研究者や職員のために作られたリッチランドという町のドキュメンタリー映画である。ハンフォード・サイトというのはプルトニウムの精製が行われていた核施設で『オッペンハイマー』の中盤から終盤にかけてロスアラモスと共に主な舞台となった場所でもあったと記憶しているのだが、その施設は原子爆弾の研究開発が終わった後も解体されることなく存続し、第二次世界大戦後に立ち上ってきて世界を東西という世界観の中に押し込めた米ソの冷戦構造の中でゼネラル・エレクトリック社が中心となり戦中以上に拡張されて核兵器の開発を支えるという冷戦下におけるアメリカの国防の重要な役割を担うこととなった。ちなみに長崎に投下された原子爆弾、通称“ファットマン”に使用されたプルトニウムもこのハンフォード・サイトで精製されたものである。ちなみに70年代くらいからは徐々にハンフォード・サイトでの核施設の稼働は縮小されていっているらしいのだが、当然ながらこの土地はとてつもない量の核廃棄物の問題を抱えており、その環境破壊っぷりは現在でも大きな影を落としているのだという。
というのはハンフォード・サイトという核施設についてのあらましなのだが、本作の主な舞台はそのハンフォード・サイトで働いていた人々が暮らすために作られたリッチランドという町の姿を描いたものである。上記したようにハンフォード・サイトが第二次世界大戦終結後も冷戦構造下でむしろ拡張されていたように、それに比例してリッチランドという町も大きく成長していったのだということが本作では語られる。正直リッチランドという名の町も含めてその辺のことは全然知らなかったので心の中のへぇ~ボタンを連打しながら興味深く観ることはできた。これは単なる偏見だが俺が日本人だからその町のことを知らなかったというだけでなく、多分アメリカ人でもそういう核兵器産業で成長した町があるということは多くの人が知らないのではないだろうか。
肝心の内容はドキュメンタリー映画としてはおそらくフレデリック・ワイズマンに倣っていると思われる作風でナレーションや字幕による説明はほとんどなく、現地の人々の日常的な暮らしの風景を撮りながら端々に彼ら彼女らへのインタビューが挿入されるといった感じ。そこで描かれるリッチランドという町の一面には多くの日本人ならギョッとなりそうな部分がある。予告編でも触れられているがリッチランドの高校の校章はキノコ雲でマーチングバンドの名前は“ボマーズ”である。アメフトチームのTシャツはB29がデザインされたものでリッチランドの住民の全てではないのは当然としても結構な数の人がそれらが象徴する歴史的事実を町の業績であると肯定的に捕らえている。そこらへんが本題となる映画だと思いましたね。それはレガシーというよりもヘリテージというニュアンスの象徴であるだろう。
個人的にはそういった象徴とどう付き合うのかという問題を描いた映画だと思った。リッチランドという町の歴史とか核兵器の是非とかだけでなく象徴というものと私たちはどう付き合うべきか、ということ。私としてではなく私たちとして。個人の問題ならなにも難しくはないんですよ。まぁそういう考え方もあるだろう、で済ませることができる。実際、広島と長崎への原爆投下を肯定するアメリカ人がいたとして、それが個人ならば(まぁそういう人もいるよな…大日本帝国に対しても同じような日本人いるしな…)とはなるであろう。でもそれが町という単位になるとおいおいマジかよって心情になる人は多いのではないだろうか。その感覚を観客に想起させることが本作に於ける「私たちと象徴というもの」との付き合い方への問題提起になるのだと思う。本作の中で描かれる象徴、シンボルとしては主に核兵器を連想する視覚的なデザインによるアイコンが主なものだが、そのアイコンが示す歴史的な事実、そのアイコンが現実でどのような力を振るったのかということは実感を伴わない象徴としての記号になり、ある種の福音としてこの町に生きる私たちを肯定するものとして流通しているのではないだろうか、と俺は思った。
と、ここまでは本作を観て数日の間に思ったことなんだけど、感想文としては本作の冒頭にある終わりのない除染作業を続ける人の姿を引き合いにして公害問題のようにそれがもたらした負の面をどれだけ時間がかかろうとも削ぎ落して浄化していくしかないのである…という締め方をしようと思っていたのだが、冒頭に書いたように野田秀樹の最新作である『正三角関係』を踏まえるとそこからさらに、人は本作で描かれたような象徴の共有からは逃れることはできないのではないだろうか、という思いが強くなってしまったのである。あくまでこれは『リッチランド』の感想文なのでネタバレに配慮しつつも深くは突っ込まないが『正三角関係』では主役級のある人物が散々宗教的な救いを模索した結果に国家という名の神の息吹によって息絶え「その“殺人”は絶対に裁かれることはない」と結ばれるのである。ジャック=ルイ・ダヴィッドによる『アルプスを越えるナポレオン』を例に出すまでもなく、私たちの総体である国家による戦争という名の暴力・殺人はいつだって美化されイコン化されるのだ。
一応書いておくと本作の劇中では主に若者たちが街のシンボルが核兵器なのはどうなのよ? ということで議論を交わして、正直ないわー、という結論に至るシーンはある。それはとても希望を感じるものではあるが、シンボルというものはすでに出来上がったものだけではなくこれから産まれてくるものもある。直近になら弾丸が頬をかすめた後に拳を突き上げるドナルド・トランプの写真などは容易にある種のイコンとなるであろう。そういう意味では本作の主たるモチーフである核兵器が私たちという複数形の中である意味を持って象徴化されるという問題は、社会における出来事のみならずあらゆる創作に於いても無視できないことなのだと思わされる。映画のラストに映される川野ゆきよの作品は個の歴史の堆積としてそれと対峙しているのかもしれない。
まぁとにかく多くの人に観られるべき作品だと思いますよ。個人的な好みはあれどワイズマン風な作りは面白かったし、本作の普遍性を踏まえた上でもやはり日本人としての立場的にも観ておきたい作品だとは思いますね。個人的には『オッペンハイマー』と『この世界の片隅に』と『リッチランド』の順番での3本立てを観てみたいですね。