ルサチマ

女体(じょたい)のルサチマのレビュー・感想・評価

女体(じょたい)(1969年製作の映画)
4.5
確かに凄いが、その凄さとは多くの人が語るようにこの映画の浅丘ルリ子をただ純粋に愛を求め動く女の運動にあるのだと見なすことにあるのではない。そもそも彼女は愛を求めて動いているわけでもない。
冒頭で岡田英次をホテルに呼び出すことに成功した浅丘ルリ子が彼の妻を出し抜くように岡田英次を抱いたことを伝えたことは紛れもなく彼女の策略として見做せるはずだからだ。そこには純粋な愛のための行動だけで片付けられるものではない。彼女の目的は愛などというそれらしい感情で動くほど生易しいものではないからだ。

浅丘ルリ子は冒頭の大学構内に響く学生運動の声さえも聞こえてはいないかのように振る舞うのであり、彼女は一切組織に属することなく、組織化されたものを破壊するために動く革命を身体一つでやってのけようとすることが美しさの根源だ。

そんな彼女は学生運動に参加することなどせずに、大学理事長という巨大組織の解体に成功してみせたにもかかわらず、小さなアパートに住む岡田英次の妹と家庭を作ろうとする伊藤孝雄の解体には悉く失敗する。

その時初めて、彼女は偽装の妻として彼女を送り迎えする車の運転席に座ることで、組織に属すことでしか真の革命は起こらないことを悟るのだが、彼女の脆さとは結局死を求めながらも自分だけは助かろうとする生半可な覚悟でしかないことにある。

そしてその覚悟のなさこそが組織に属せない者の弱さであることを増村は提示する。

彼女が最後に湯船に浸かるのはなぜか。
身体にまとわりついたあらゆる汚れを落としながらも、最も身体にわかりやすく汚れとして付着した伊藤孝雄の血を舐めながら気付かぬうちに室内に蔓延したガスを吸い死ぬ。

彼女は伊藤孝雄の血を舐めてはいるが、その血とは画面に映る黒味がかった色でしかない。彼女は結局のところ家庭的組織を自分のものにできなかったことを、黒味がかった色を舐めることで突きつけられている。

そして浅丘ルリ子はついに、全てを捨て去った岡田英次からの救済の電話さえ受け取ることはないが、この映画が勿体ないとすれば彼女に訪れる死を結局のところ偶然性のうちに処理してしまったことだ。

しかしながら、彼女が真に自らの手を汚し革命を遂げようとするのであれば、偶然のうちに蔓延したガスを吸うだけでいいのだろうか?
自らの汚れを知り、その上でガスの存在にも気が付きながら電話を取らないという態度も可能性としてあり得たんじゃないかと邪な考えがどうしても過ぎる。
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