
東南アジアで「ひとりNGO」として活動し、2022年に71歳でこの世を去った栗本英世の人生を、生前の彼の映像や、関係者の証言でひも解く。人身売買や地雷の危険にさらされた人々を支援し、子どもの教育のため草葺きの寺子屋を立てるなど、各地を奔走した栗本。いつも一文なしで、手ぶらで現れることから、いつしか「OKA(カンボジア語でチャンスの意)」と呼ばれるようになった。何が彼をそこまで駆り立てたのか。彼が残したものとはーー?
戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読む「Dr. Bala」は大村医師の12年の医療ボランティア活動を追ったドキュメンタリー。独自の方法で東南アジアの差別と厳しい医療状況に立ち向かい、現地医師に技術を共有し医療改革に導く。彼の明…
>>続きを読むあるグローバル企業が、パキスタンで粉ミルクを強引に販売したことによって、不衛生な水で溶かした粉ミルクを飲んだ乳幼児の死亡率が増加してしまう。その現状を知ったセールスマンのアヤンは、自らが販…
>>続きを読む1981年、祖国の内乱や殺戮から日本に逃れてきたカンボジア難民の子どもを受け入れ育て、その関わりから始まったカンボジアでの学校作りは、広がった支援の輪により、19校にのぼる。 その集成と…
>>続きを読む彼女の名前は桂子ハーン、91歳。私の伯母である。桂子は1951年、20歳の時に米軍の兵士と結婚し海を渡った『戦争花嫁』と呼ばれた。これは【真実の愛の物語】である。激動の時代を生きた桂子の人…
>>続きを読むプリシラ・ステナイは、3人の子供、22人の孫、52人のひ孫に恵まれ、ケニアの小さな村で助産師として暮らしてきた。皆から“ゴゴ”と呼ばれる人気者だ。ある時、彼女は学齢期のひ孫娘たちが学校に通…
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