Oto

お引越しのOtoのレビュー・感想・評価

お引越し(1993年製作の映画)
3.8
是枝監督、池田千尋監督、長久監督...が勧める偉大な映画。
前半は質の高いコメディで、意外だ〜と思って観ていたら、後半は相米慎二らしい狂気が全開で少し安心した(アルコールランプ・お風呂立てこもり以降)。はじめは漫才のように軽快に使われていた関西弁が、冷たいキツい印象に変わっていくのが上手い。かと思ったら終盤は極端なまでの沈黙。

「飛躍」の映画というのがまずはじめに出てくる感想で、特に何度も繰り返される飛躍が、突然の疾走と自然風景。その意図は正直つかみきれなかったけど、受けた刺激に対する拒絶や反抗(リトマス法)が前者で、静と動が激しく転換する人間の生活と対照的に佇む大きな存在の表現(モンタージュ)が後者かなと推測。

レンコの行動(家出計画、実験室の喧嘩)は、わがままのようで実は他人のためかもしれない。単にお母さんが嫌だというよりは、両親に気づいて欲しいことがあって動いているように見えた。
そのテーマの一つが「大人ってなんだろう」だと思う。お好み焼き屋のシーンとか、「どっちが子供やねん!」と感じさせる。これは『台風クラブ』とも共通しているし『プー金』や『リトルゾンビーズ』にまで引き継がれている。

彼女は純粋に対等に、家族で楽しく暮らすということを望んでいるだけなのに、親は素直にならず事態を難しくしていく。だから、老夫婦と一緒にいるときに、二人の間から覗くレンコという構図は共通だけど、「彼女が望んでいた居場所はこれだったのかもな〜」と思った。
父とは希望の片鱗もあって、階段上のぬいぐるみのシーンと、大文字越しにバイクで走るシーンは超最高。だけど大縄跳びの喩えとか夏休みの宿題への回答には軽薄さが見え隠れしていて絶妙。

子供は純粋ゆえに残酷さも持ち合わせていて、理科室で親をいじるというシーンは大人よりもタチが悪いと思ったし、自分自身もこういう同調の被害を受けた記憶は抱えている。心情をそのままセリフにして語らせられる子役だからこそ成立していると思った。

一方で、その後でおぼろげに続く孤独なシーンは彼女にとって「通過儀礼」的な役割で、世の中の複雑さ・困難さを知るような段階に見えた。独り言がだんだん減っていって、いわゆる"大人"に近づいてしまっているような感覚。どうにもならないこともあるんだ、自分の正解が適応されないこともあるんだという気づきかなあ。多分これは老人と出会って「忘れる」ことを知ったから。
なので修復が不可能だと悟ったときに新しい自分に対する「おめでとうございます」と言えたのだと思う。腹痛は初潮の象徴。「クマさんのいうことにゃ、おじょうさんおにげなさい、スタコラサッサッサのさ、スタコラサッサッサのさ」。

この終盤はさすがに長さを感じた。中盤までのユーモアと緊張感が共存した描写(ムーンウォーク、追いかけっこ、「接触」「月一じゃダメ?」とか)がとても好みだったので、テンポの落差に驚いてしまって正直好きとは言い難い。非言語的な説明描写としては素晴らしいものの、読解力が足りなくて心情が伝わらない。
漫才→喧嘩→沈黙、だったけど順序が逆の方が好きだったかもしれない。メディアの性質上、非言語性を肯定したいのかもしれないけど。

そのような経験の上で日常に回帰した時に世界の見え方が変わるというのはよくあるけど、作文というメタな表現に落ち着くのは『スタンドバイミー』『パンズラビリンス』『バーニング』的な救いが残ったラストだと思う。
エンドロールも不思議だったけど、「背伸び」をやめて歩き出すたくましさの肯定かもしれない。クラスメイトの二人の友達との関係性も回収されていないところもリアル。

あとは、小道具の使い方も印象的。三角のテーブルの一辺が欠けたり、柄のシャツと白いシャツの対比、違う人からもらう2つの契約書など。
部屋の狭さをカメラ正面の横切りで示したり、オフィス越しに公衆電話を撮ったり、お風呂場でガラスを突き抜ける血まみれの手だったり、祭りなど日本文化の撮り方だったり、演出でも見習える部分がたくさんあった。
ポスターもコピーも非常に好きで、映画広告はこうあってほしい。

まとまらないし、わからないことも多いから、またいつか観ればもっと好きになるかもしれない。
Oto

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