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Dry Leaf(原題)
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『Dry Leaf(原題)』に投稿された感想・評価

[フレーム、すなわちサッカーゴール] 90点

大傑作。2025年ロカルノ映画祭コンペティション部門選出作品。アレクサンドレ・コベリゼ長編三作目。長編一作目『Let the Summer Never Come Again』と同じく、ソニー・エリクソンW595の低画質なカメラで撮影された一作。少しでも暗いとこに行ったら何にも見えなくなる、低開発の記憶ならぬ低解像の記録である。主演は監督の実父ダヴィド、音楽と音声は監督の兄ギオルギ、撮影は監督本人が行っていて、後述するが同行者は透明なので、マジでほぼ家族だけで作った作品ということになる。物語はスポーツ写真家のリサが両親に手紙を残して失踪したところから始まる。"探さないで"という彼女の言葉に反して、心配する父親イラクリはリサの同僚レヴァン(透明)と共に、彼女が途中までやりかけていたプロジェクトである"田舎の村にあるサッカー場の取材"の足跡を辿り、彼女を追いかけ始める云々。透明な相棒レヴァンくんは存在が曖昧なだけでなく記憶も曖昧なので、リサの撮影旅行に同行しておきながらどこに行ったか何も覚えていないので何の役にも立たない。ということで、マジで『トレンケ・ラウケン』くらい見つからないまま、186分もの間ジョージアの田舎を彷徨い続ける作品となっている。原題"Dry Leaf"が予測不能な軌道を描くキックを指すサッカー用語らしく、物語も枯れ葉が風に舞うように軽やかに、似たような場所を巡り続ける。

ジョージアでサッカーは人気の競技らしいが、それにしても"人間がいるところにはサッカー場がある"というのを信じすぎているし、その上で本当にサッカー場はあるのが凄い(こんなデカい村なのにサッカー場がないなんてあり得るか?みたいな台詞も登場)。まぁ枠があればゴールになるし、そこにボールがあればゲームはできる。登場するサッカー場は整備されたものもある一方で、本当に枠だけ作って放棄されたようなものも存在し、映画はそちらを殊更に強調する。そして、それはまるでフレーム内フレームのように空間を切り取る。通常コートを作るならゴールは二つ必要だが、基本的に一つしか映らないことから、この映画においてフレームはサッカーゴールなのかもしれない。ゴールがあればサッカーが始まり、フレームがあれば映画が始まるように、フレームがあればサッカーが始まり、ゴールがあれば映画が始まるということなのだろうか(事実、ゴールが無くなった瞬間に映画が終わりに向けて転がり始める)。

それにしても画質は悪い。解像度もフレームレートもダイナミックレンジも軒並み悪いので、とにかく視認性が悪い。イラクリは禿げてるので中距離くらいなら判別できるが、それ以外の人はもうよく分からない。しかも、リサの写真を見せて確認してもらう際はロングショットのことも多く、視認性はより悪くなる。ただ、この粗い画質の持つある種の禍々しさは、放棄されたサッカーゴールを異界へ繋がる門のように見せるし(実際にズームイン/アウトで別の場所にいる瞬間がある)、頻繁に映り込む種々の赤い服の人々は強烈な印象を残す。『近畿地方のある場所について』の"見たら死ぬビデオ"の赤いコートの女くらい、匿名性が高く禍々しい。赤いものは服以外にもリンゴやベンチといった形で登場する。もしかするとリサの残留思念みたいなものと共鳴しているのかもしれない。加えて、コベリゼ的マジックの産物として、登場人物の半分は無色透明であり、作中の人物はそれを当然のものとして受け入れているという世界観で物語は展開していく。見えないというだけではなく、影も重みも存在しない。画質の悪い映像は、存在の曖昧な彼らの見た"曖昧な"世界を表しているのかもしれないし(なんなら透明化したリサの視点かもしれない)、画質の悪さの生むある種の匿名性は"不在"の人物を"存在させる"のに役立っている。また、スポーツインストラクターであるイラクリが授業で強調していた"線"、転じてゴールのポールは、境界の曖昧な世界に境界を引く存在なのかもしれないと思うなど。

もう一つ重要な要素として木がある。森そのものを映していることもあるが、多くの場合、森から離れた場所に数本だけ聳え立つ存在感のある一本の或いは数本の木に着目している。アレクサンドル・レフヴィアシヴィリの作品群にて、ジョージア人と森、或いは木の関係性について深く考察されていたわけだが、本作品もその姿勢を継承している。そして、それは隣接するサッカー場の未来にも直結している。こうして、木/サッカー場/映画は強固に結び付けられ、現在進行形で文化/自然が破壊され踏みにじられている様を映し出していく。しかし、まだ希望は残されている。国中に散らばった人々が、サッカー場への道を指し示してくれる限り。
4.5
【三宅唱旋風の裏で荒れ狂う3時間のガビガビVLOG映画】
先日、第78回ロカルノ国際映画祭の受賞結果が発表された。三宅唱監督『旅と日々』が最高賞を、空音央監督『まっすぐな首』が最優秀短編映画賞を受賞したことで日本では歓喜に包まれた。一方で、他の受賞作の情報は全く流れてこない。こういう時こそ、他の部門にも目を向けるべきである。実際に今回のロカルノ国際映画祭は当たり年だったようで、中国でキャリアを積もうとするベラルーシ人モデルがモルグの男と惹かれる『WHITE SNAIL』や東京国際映画祭で『私に構わないで』が紹介されているハナ・ユシッチ新作『GOD WILL NOT HELP』、アッバース・ファーディル新作『TALES OF THE WOUNDED LAND』が受賞している。どれも今年の東京国際映画祭に来る可能性を秘めている作品である。そして、その受賞結果の中に『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』アレクサンドレ・コベリゼ新作『Dry Leaf』の名前があった。サッカー場を撮影する女が失踪し、父親が幽霊と共に彼女の轍を巡る3時間を超えるこのロードムービーがスペシャル・メンションを受賞していたのだ。実際に観てみると、想像以上にチャレンジングな、もはや実験映画の領域ともいえる意欲作であった。ボールの軌道を予測不能にする蹴り方を示すサッカー用語から取られているだけあってトンデモナイ変化球だったのだ。

オープニング映像で強烈な違和感を抱いた。イメージがガビガビなのだ。YouTubeの144pレベルの低解像度となっているのだ。ネットワークが悪いのかと設定を自動から720pに変更し確認する。しかし、状況は変わらない。この時点で「長い旅になりそうだ」と思った。そして、アレクサンドレ・コベリゼは『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』ではなく、『Let the Summer Never Come Again』の監督であったことを思い出した。彼の長編デビュー作『Let the Summer Never Come Again』は低解像度の携帯電話のカメラで撮影された202分ある作品だ。セリフはほとんどなく、人生の何気ない日常を思い出したかのようなイメージの表象として低解像度の映像が用いられている。本作はこの技法を発展させたものとなっている。

スポーツ写真家であるリサから「わたしを探さないで」と手紙が届く。しかし、父のイラクリは心配してリサの編集者に連絡を取る。彼女はどうやらジョージアの廃墟同然のサッカー場にまつわるフォトエッセイを作ろうとしていたらしい。イラクリはリサの知り合いでもあるレヴァンと共に、彼女の轍を辿る旅に出る。ここで重要なことは、レヴァンは幽霊のような存在であることだ。なぜなら、イラクリが車に乗り隣に話しかけるも、そこには誰もいない。そして、レヴァンは受け答えをしているからだ。

最近、ホン・サンスが部分ピンボケ映画『水の中で』で映画における印象派的役割を模索していたが、『Dry Leaf』はより深い次元で映画が表現するイメージの拡張に成功しているといえる。まず、バキバキにキマッたショットながら画質が悪すぎてフラストレーションを引き起こす様は、印象派が元来、美術界において悪口のラベルとして扱われ一部で嫌悪されていた状況とシンクロしている点にある。そこには、従来型の手法に対する批判的な側面がある。映画業界が4K、8K、IMAXと高画質な映像を求める中でノスタルジックなタッチとしてフィルムの質感で描くアプローチは定石である。しかし、デジタルの時代も30年近く経っている。デジタルの映像にもフィルムのようなざらつきが存在し、それを通じた過去の表現ができないか?この新機軸は『水の中で』になかったものといえる。そして、低画質によってビット単位で光の粒子が露見し、低画質の世界の奥に広がる絶景へと意識を向ける様は印象派を鑑賞する態度に近いものがある。つまり、本作のアプローチは映画で印象派をやる本質に迫った作品なのだ。

このアプローチは映画と密接に関わってくる。ストーリーはありふれた「他者の轍を辿るロードムービー」である。これは過去を辿ることと同義であり、他者が踏んだ地と同じ場所に立ち過去へと想いを馳せる中で自分を見つめ直す活動となっている。過去を振り返ることはノスタルジックなことである。脳裏には朧気ながらも恍惚な風景が広がるものである。さらに今回の失踪者は写真家なので、彼女の撮影した当時の情景/今いる場所/彼の脳裏で再現される当時の場所が折り重なり心が複雑に揺さぶられていく。だからこそSony Ericssonでレンダリングで行い2Kで上映する、今の映画だけれども昔のホームビデオのようなイメージに意味があるのだ。

また、本作はコロンブスの卵一辺倒な映画ではないことも言わねばならない。本作において廃墟同然のサッカー場といったモチーフが重要な役割を果たしている。このモチーフはヴィクトル・エリセ『瞳をとじて』のネットが張られていないゴールに記憶と記録の中間を象徴させる手法に近いのだが、本作では子どもたちが遊ぶ状況も捉えられている。実際にサッカー場へ行く、そこで活動が行われているかどうかわからない宙吊りの中でふと営みが現出する。まるで記憶がふっと現実のように降りてくる感覚があり、本作における霊的存在と実体の曖昧さ。旅をする、匿名的他者として彷徨う自分自身もまた幽霊のようであり、それが物語を放置したかのように揺蕩う心象風景と強固に結びつくのである。