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クロコダイルの涙のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

クロコダイルの涙(1998年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

木と木の間に車が挟まった自動車事故現場を徘徊する謎めいた美貌の男。その後、彼は地下鉄の駅で自殺をしようとしている女性を救う。付き合う内に自分の美しさと甘い言葉で女性を虜にした男はベッドを共にするが、男は女性の血を吸って殺害するのだった…。

クロコダイルの涙=鰐が泣く?なぜ?
不思議な邦題に惹かれて鑑賞。
若き日のミステリアスなジュード・ロウの美貌を活かしたサスペンスの佳作。
邦題の意味を調べてみたが、クロコダイルは生きるために獲物を殺すが、涙を流してそんな本能を正当化している。
そんな意味があるらしい。
美しき男は吸血鬼なのか?それともサイコキラーなのか?最後まで分からない。
妙な後味が尾を引く作品である。

美しい医師、スティーブン・グリルシュには秘密があった。
彼を愛する女性の血を飲まなければ生きていけない。
犠牲者たちの感情はグリルシュの体内で結晶となり、それを苦痛と共に吐き出してコレクションとしているグリルシュ。
しかし、仕事熱心で賢いエンジニアの女性アンに恋をして、彼女を殺すことに躊躇いを感じるようになる。
一方でグリルシュの殺した女性の死体が漁船によって発見され、警察が捜査を開始する。
1人の刑事は経歴も身元も不明なグリルシュを犯人だと疑い始める…。

血を飲むから吸血鬼だとは匂わせてはいるが、「グリルシュが吸血鬼である」とは、劇中ではっきりとは説明されていない。

警察や市役所の記録にも経歴がなく、アパートの部屋はアンティークな美術品が飾られている所を見ると、古から密かに生き続ける吸血鬼か?と思わせるが、グリルシュは我々の知る吸血鬼ではあり得ない行動も取る。

陽の光の中を平然と歩き、アパートのテラスで日光浴すらする。
刑事の持つ十字架を街のチンピラから取り戻した際は、十字架に触れても苦痛を感じている様子が全くない。
またデート中にレストランのフレンチやテイクアウトの中華など、いかにもニンニクがきいていそうなものも平然と食べている。
主人公グリルシュは伝承に伝わる吸血鬼とは全く違うため、「ただの人間なのか?」とも思わせる。

しかし、本作の主題は彼が吸血鬼どうこうと言うよりも、もっと深いところにあるようだ。
中盤までは、恋をした吸血鬼が人間性に目覚め、恋する女の血を吸えず(殺すことが出来ず)餓死してしまうような悲恋ものか?と思っていたが、終盤の展開にテーマはそれとも違うように感じられた。

どうやら、本作のテーマは「動物が動物を捕食することは罪なのか?」ということらしい。
劇中でグリルシュは「人間の脳は進化の過程を内包している」と語る。
「大脳の最も中心にある古皮質は両生類から、新皮質は哺乳類から見られるものだ」と…意味あり気に。

クライマックスでグリルシュは愛するアンを襲い、血を吸おうとする。
きっと、グリルシュは愛する者を生かすという理性より、食欲という生命維持の本能に負けたのだろう。

彼が獲物にできるのは、彼を心から愛した女の血だけ。
これまでの獲物は最後に彼を憎んだり恨んだりしたが、アンは違うかもしれない。
彼女の血は、彼を嘔吐で苦しめる暗い感情の結晶など生まないのかもしれない。
殺されるというのに自分を愛し続けて死んでいく女の血は、おそろしく甘美なものにちがいない。
その食欲にグリルシュは負けたのだ。

彼の流す涙は、獲物の死を悼んでいるのではなくて、罪悪感を払拭するための「嘘泣き」だとアンは指摘する。
愛するアンでさえ最終的に彼から逃げ、死にたくないとグリルシュの首に箸を突き立てて彼を殺して映画は終わる。

人間、実際に身の危険を感じれば本能的に逃走し、防衛するだろう。
愛は生きていればこそ。死は愛より重いのだ。
アンの決断は正しい。

映画としては最初とラスト以外にショッキングな描写は無く、残念ながら盛り上がりには乏しい。
グリルシュが本当に吸血鬼なのか?それともサイコキラーなのか?も分からず、中途半端な印象は否めない。
しかし、グリルシュの内なる葛藤には、観賞後考えさせられるものがある。

もしかしたら何世紀も生き続けた吸血鬼かもしれないグリルシュが求めていたのは、ごく単純に「理想の恋人」なのかもしれない。
だが、自分が生きるためには、その女性を殺さなくては(食べなくては)ならない。

また、愛した女をも殺してしまう自分という獣を殺して欲しいとも願っている。
それも彼の本心なのだ。
だとしたら、本能と理性と愛のせめぎ合いがある。
「愛するために生かすべきか?生きるためにに食べるべきか?」
意外と深いジレンマがあり、なかなか切ない話だ。
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