大広間にずらりと並んだ芸者衆がおどりで祝う主賓は、司法試験に合格した大学生役の桑野通子と、芸者として彼女を支えてきた姉役の川崎弘子。ふつう宴席で芸者が囲むのは旦那衆である。ここに男はいない。なかなかに奇妙な構図だ。
芸者を女の敵と蔑み決裂していた桑野通子の学友が和解し唱和する「純情の丘」に、三味線とコーラスで加わる芸者衆。彼女たちは、弁護士をめざして勉学に励む桑野通子を希望の星として慈しむ。芸者衆は、個人というよりも女という集合体、共同体のようなのだ。川崎弘子もまた、恋人を奪った三宅邦子が乳飲み子を抱えてひとり困窮しているさまに、過去の恨みも忘れて助けようとする。自分たちが成し得ない希望を託したい。または幸せになれない女や幼い子どもを見捨てたくない。そういった念の集合が、女だけの宴席として表されることに驚く。今年公開された『ハスラーズ』に世代や人種を超えた女たちがパーティをひらくシーンがあったが、80年前すでにそれは表現されていた。また知的階級である大学の友人たちとのわだかまりであった「恥ずべき商売」の垣根が取り払われ女という共同体として融和した場にも見える。
しかし桑野通子当人はどうなのだろうか。矢鱈と連帯を強いる友人たちは芸者を軽蔑し遠ざかるが、彼女は姉を侮辱されても友人たちに迎合したいとは思わなかった筈だ。七人組の友情という金科玉条を掲げられ、その弁護士デビューをとてつもなく残酷なかたちで迎えることに承知したものの、彼女にとって大事なのは姉と亡父で、その信念のもと常に独立した個でありたかったのではないか。
そのことは物語の中には表現されない。
10分以上ある裁判シーンのほとんどが桑野通子の長科白という、一世一代の主演作。