晴れない空の降らない雨

マルタの鷹の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

マルタの鷹(1941年製作の映画)
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■顔はもう語らない
 最後の謎解きが二段構えになっている。最初の謎解きは通常のミステリーにおけるそれで、誰が誰をなぜどう殺したかといった話だ。だが、次の謎解き、つまりボガート演じる私立探偵がメアリー・アスター演じる悪女を追い詰めるシーンでは、性質が異なる。ここでも、まずは事実関係の暴露から始まるが、それによって同時に明らかになる劇中を通してのボガートの思考へ、そしてボガートとアスターの内心の真実へと焦点が移っていく。
 ここでは客観的事実から主観的真実への関心の移行が起きているのだが、そこは差しあたり措いておこう。それよりもまず強調しておきたいのは、通常のミステリーとは逆に、映画の中でずっと欺いていたのは主人公だった、ということだ。本作を振り返れば、警官、マフィア、女の前で、彼はつねに演じていたことに気づかされる。観客にとっては、ボガートの最後の行動によってようやく謎が解決される。ボガートの斜に構えた態度、クールなポーカーフェイスは、ハードボイルドに自己表現の最良の場所を見つけた。ついでにいえば、その意味では、叙述トリックを用いた作品といえる。
 30年代ハリウッド映画のストーリーテリングの簡潔さは、ひとつには、主人公の次なる行動の予測可能性の高さに支えられていた。もちろん根本的には本作も結局は従うところのコードがあるわけだが、表情が行動を予測させたのである。本作のアスターのように、他の人物を偽るための表情はあっても、観客は真か偽か2つの可能性を考慮していればよく、また少なくとも90分以内に真実が明かされると理解しているから、本質的な問題にはならない。
 本作の場合、事情が異なる。ボガートにおいて、顔はもう語らない。ボガートが他の人物を欺くために怒りの表情をつくるときでさえ、観客はその本心が分からない状態に置かれる。
 
■誰もが誰かを利用しようと企んでいる世界
 それでも、最後に主人公の真意が明かされたのであれば、まだ本作は古典的な枠組みにとどまりきっていただろう。ここはかなり微妙だ。確かに、最後の語りで、この主人公が相棒の仇討ちという目的に終始忠実だったことが明かされる。そこだけを取れば、プロテスタント的な自律した個人というアメリカ人(男性)の理想型が、物語の主人公像に転写される形で、本作にも維持されていると言える。
 しかし、ここでの彼の言い分は支離滅裂であり、観客からカタルシスを奪うものだ。彼は女に惚れていたらしいが、同時に自分を裏切ると確信しており、また相棒の仇を討たねばならぬと決意していながら、もっと金を寄越していれば君の思い通りになっただろう……などとまくし立てる。語られることは結局のところ、自分の本当の気持ちが自分でもよく分からないということである。この最後の語りは、フィルムノワールを特徴づけるボイス・オーバーの等価物と言ってよいだろう。
 ということを踏まえて、「客観的事実から主観的真実への関心の移行」に戻ってみると、実際にはそれを明らかにすることに関心があるのではなく、むしろそれが本人にとってさえ不透明なものとなってしまった、という点が本作のミソであろう。
 なぜ、そんなことになってしまったのだろうか。わざわざ言うまでもないが、ここには「人間の心とはかくも複雑なものなのだ」といった牧歌的なメッセージなどない。本作に登場する悪党どもに目を転じると、彼らはきわめて単純に描かれている。強烈な個性をもっているが、その背後に複雑な感情のせめぎ合いはない。むしろ単純そのものだ。というのも、ボガートの最後の台詞にあるように「欲望」、ここでは金銭欲が主要な人物らの中枢原理となっているからである。そして、ボガートすらその汚染を免れていない。
 劇中、ボガートは警察に殺人を疑われ、悪党に「マルタの鷹」を持っていると疑われて付け狙われる。ボガートが探偵事務所でアスターに口づけしようとする際、外から自分を監視している男に気づくシーンがあるが、ここに特徴づけられるように映画はパラノイア的恐怖の雰囲気に満ちている。ボガートは彼らを出し抜くために、ひたすら内心を押し殺して立ち振る舞わなくてはならない。最後にボガートが見せる混乱は、心の不確かさといった一般的なものではなく、徹底的な自己抑制と猜疑と演技の副作用である。つまるところ、誰もが誰かを利用しようと企んでいる世界では、ココロなんて甘っちょろいものが存在する余地はないのだろう。
(例えばこの映画なんかの孤独な主人公をみていると、戦後アメリカでカウンセリングが一大文化となったのも理解できるというか。)