晴れない空の降らない雨

ヴェルクマイスター・ハーモニー 4Kレストア版の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

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 4作品観た限りでの感想だが、本作は一番見やすいタル・ベーラだと思う。上映時間も常識の範囲内だし、スペクタクルもたっぷりあるし、寓意も分かりやすい。
 これまでに観たタル・ベーラは最終作『ニーチェの馬』を除けば寓話的で、前提知識は求められるものの、それなりに解釈が成立させられる(『ニーチェの馬』からは「全て既に終わっており語ることは何もない」という印象を強く受ける)。
 もちろんその解釈が正解だと言うつもりはないし、隅々まで理解できると言うつもりもない。つい「分かりやすい」と書いてしまったが、「各自自分が納得のいく解釈を組み立てやすい」という意味に受け取られたい。
 
■文明的黙示録の寓話
 本作の文明論的含意に関して興味深いのは、タイトルにあるヴェルクマイスター調律への批判と近代批判が重ねられていることだろう。音楽に疎い自分にはよく分からなかったが、老いた音楽理論家のエステルはヴェルクマイスターを批判しながら、ピタゴラスの調律法に帰れと主張しているのだろう。ルソー以来よくある手口で、複雑多様化した近代ヨーロッパとの対比で、古代ギリシアの「純粋性」「単一性」が称揚されているわけだ。
 ところで、古代ギリシアといえば「デモクラシー」だが、かつてデモス(人民)が民会を開いたというアゴラ(広場)は、今日でも例えばデモの舞台となり、デモクラシーを単なる選挙・投票に堕落させないための必須要素として理論化されている。
 しかし、本作で広場を占有しているのは、ヒトラーを(いささか明白に)連想させる小人“プリンス”に煽動されて、破壊と暴力にひた走る群衆である。また、広場に鎮座するサーカス団のトラックも、ローマ帝国の愚民政策を指す有名な言葉を連想させるに十分だろう(ついでに言えばプリンスが話すのもイタリア語だ)。これが社会の実相であり、古代を理想化するエステルは無力な良心的知識人の戯画を演じている。
 (もっとも、古代と現代の対比というのも所詮幻影に過ぎない。古代民主制の賛美者筆頭であるハンナ・アーレントがその著作で引用するのは、あろうことかペリクレス将軍の演説である。これは、当時厭戦気分が高まっていたギリシア人の戦意を鼓舞するものだった。要するに民衆の情動を操作する類の言論だ。それがアゴラで叫ばれ、戦争が継続され、結局ギリシアは敗北する。一体全体、ペリクレスと本作の“プリンス”を分かつ境界線をどこに引けばよいのだろうか?)
 本作のもうひとりの良心的存在、すなわち主人公のヤーノシュに関していえば、星々の運動という自然の神秘、クジラという神の創造の御業への彼の憧れは明らかに揶揄されている。冒頭のシーンはギャグだし、クジラは安っぽい偽物だ。そしてヤーノシュを圧倒し最後は救済しさえするのは、クジラよりむしろそれを乗せた巨大なトラックであり、天からの使者といった風情のヘリコプターといった機械である。
 
■白黒と長回しの美学
 タル・ベーラ作品の白黒は、単に黙示録的な雰囲気をまとわせたいからといった動機に還元しつくすことはできないだろう。その光と影の演出の追求っぷりを見るに、そこには独立した美学があるとしか思えない。昨今の大半の白黒映画と見比べてもよく分かる。芸術ぶったそれらの凡作において、白黒とは単に雰囲気の問題に過ぎない。
 特に時間帯が深夜~明け方頃である最初の数ショットのキアロスクーロは、まぁ単なるフェティシズムに過ぎないのだが「分かってんな~」と頷きながら(何様)見つめていた。

 移動撮影を駆使した長回しも緊張感において効果を的確に上げており、とりわけカメラが動いたときに突如として人物がフレームに出現するという演出が何度か見受けられる。ヤーノシュが広場を偵察するシーン、病院襲撃のシーンなどが印象的だ。
 ただ、この長回しがスペクタクルを生み出す手法として機能している反面、それこそが物足りなさを覚えさせる理由にもなっている。早い話が、いささか計算が過ぎるように感じる。病院の襲撃者たちが最後に全裸の老人と遭遇する辺りなんて、いささか出来すぎだ。言っちゃなんだが、こういう移動撮影を駆使した長回しのシーンにおいて、カメラに同一化しながら事の成り行きを追いかける感覚は、一人称のテレビゲームを遊んでいるときのそれにかなり近い。
 同じ長回しでも、やはり前述のような序盤のワンカット・ワンシーンのように美的な要請から撮られた長回しや、警察署長のクソガキどもが部屋で暴れ回る気の滅入る固定ショットのほうに軍配が上がる。もちろん自分の好みとして。