晴れない空の降らない雨

哀れなるものたちの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
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 このところ絶好調なランティモスの新作。これまでの作品と違って明確なハッピーエンドであり、主人公の満足そうな笑顔で映画は閉じられる。印象としては、北野武の『ソナチネ』や『3-4×11月』のあとで『HANA-BI』を観た感覚に近い。要するに丸くなった。
 
 もちろん世間一般の感覚に照らせば十二分に過激ではあるものの、本作がどことなく相対的に大人しく感じられるのには、疑似19世紀末的な美術や浮世離れした登場人物らが醸し出すおとぎ話的ムードのも一役買っているだろう(ちょっとだけティム・バートン感さえある)。
 
■転覆的
 しかし、本作と過去作との決定的な違いは会話にこそ表れている。
 ランティモス作品では、常に会話の人工性が際立っている。本作も同様に、主人公ベラの話し方にはある種の人工感が付きまとうが、その意味は従来とまったく異なっている。従来の作品においては、不条理なルールが世界を支配しており、そこに服従する人間たちの会話が我々にとって不自然に聞こえる。
 本作はそうでなく、単に主人公ベラの話し方が不自然・人工的であるに過ぎない。それは、本作が発するフェミニズムへの共感とともに、作品世界に対して転覆的なものとして提示されている。つまり、ベラは正しく「女性的」ではないということだ。
 だが、これまでのランティモス作品では、世界そのものが最初から転覆させられていた。この違いをどのように受け止めるかは観客次第だが、少なくともインパクトという点では本作のほうが和らげられているのは確かでないだろうか。
 
 
■フェミニズムと女性器
※ここからは大変下世話なうんちく語りをするので、苦手な人は読まないでください。
 ランティモスの映画にはクンニリングスが登場するが、自分は以前これを女性間における支配の道具として捉えていた。しかし、本作では親密な関係にある主人公と黒人の娼婦仲間がこの行為に及んでおり、支配という意味合いは感じられない。
 
 このことを本作のフェミ的傾向と併せて考えてみると、クリトリスについて触れざるを得ない。
 20世紀後半のフェミニズム思想の一部において、クリトリスは重要な部位である。その発端はフロイトにある。フロイトの幼児性欲論は、男女ともに当初の性愛の対象は「母親」であり、そのとき主要な性感帯は「男根」であると主張した。彼は、幼児においては膣の存在は気づかれていないと述べたが、少なくともこれはその通りだと思う。問題は、ここでいう「男根」とは女性においてはクリトリスを指すということだ。そして抑圧による潜伏期を経て、性愛の対象を異性に切り替えるのと並行して、女性にとって性感帯は「膣」に移行する……それが「正常な発達」だとフロイトは考えた。
 つまり、少なくともフロイトは、人生のある時期まではクリトリスが膣よりも重要な性器だと認めたわけだ。その後の「正常な発達」が支配的文化による「捻じ曲げ」の結果だと解釈すれば、クリトリスに対する膣の優位性は覆ることになる。
 
 映画の後半で、ベラの元々の夫が彼女のクリトリスを切除するように医師に指示している場面を思い出そう。
 また、ベラの元々の身体の持ち主が、お腹の胎児を「モンスター」と呼んでいたことを思い出そう。
 クリトリスの切除とは、女性の純粋快楽の否定であり、生殖(社会的再生産)のための性行為しか認めないという態度を示している。逆にいえば、ある種のフェミニズム思想がクリトリスを称揚する理由もそこにある。そして、このことは半ば自然の成り行きとして、女性同士の性愛の称揚に行きつくだろう。