ryosuke

アカルイミライのryosukeのレビュー・感想・評価

アカルイミライ(2002年製作の映画)
3.8
何が面白いのかと問われると上手く説明できないが、何と無く面白いとしか言えない作品だった。ショットがめちゃくちゃキマっている訳でも、話が凄く面白い訳でもないんだけど目は離せない感じ。やはりクラゲのイメージは素敵。
会話はこもっていて若干聞き取りづらいが、まあ意図的なんだろう。日常の閉塞感やディスコミュニケーションの表現なのかな。
定期的に挟まれる画質の悪いザラついたカット、顔が意図的に画角から一部はみ出した状態で長回しで捉えられる会話、屋上から見えるモノクロに侵食された街等々が不穏な印象、崩壊の予感を与える。
トラックの内部は黒色で区切られ二つの枠に人物が収まる。この仕掛けによって片方の不在と枠組みからの逸脱が強調される。そして最後には一つの枠に二人が収まる瞬間まである。その描写は当然テーマとも連関を持っている。
明らかに不安定なオダギリジョーではなく、本当にヤバイのは浅野忠信だった。この二人はそれぞれ別ベクトルの危うさがあって実に良かった。ラスト間際の憑き物が落ちたようにまともな青年の顔をしているオダギリジョーも印象的。もう未来の夢は見(られ)ないだろう。藤竜也の側にアンテナを落としたりして(ちょっと故意にも見える)不穏な感じは残っているんだけども。
はしゃいで卓球の試合を応援する中年を嫌そうに見つめる若者二人など実に意地悪な切り取り方で素敵。中年と若者は徹底的に相互理解が不可能に描かれ、それがクラゲを媒介にして混ざり合って行く。そのテーマは藤竜也のオダギリジョーへの叫びに凝縮されている。若者像は結構ステレオタイプ的に見えるが、それは「大人から見た若者」のリアルなイメージの表出とも言えるのか。衝動に身を任せる若者との対比としてのリサイクルショップの仕事。古い商品をなんとか動くように延命させて、日々を維持して行く営み。
オダギリジョーは浅野忠信の「行け」のサインと彼によって脳内に植え付けられたクラゲのイメージに侵食されていくが(クラゲとクラゲの足のようにボロボロになったカーテンと地に足がつかずふわふわした印象のオダギリジョーがワンカットに収められた画)、中年のおじさん=現実によって引き戻されて行く。藤竜也がむしろクラゲに取り憑かれていくが、序盤とは違い若者は中年がクラゲを触ることを止める。藤竜也のへへへっという笑い方がどこか悲しく印象的。
チェ・ゲバラのTシャツを着て無軌道に歩く若者たちに「アカルイミライ」のタイトルが重なるが、それはあくまでフィクションであるというように撮影スタッフの姿が映り、突然若者たちは我に返ったように真顔になって真っ直ぐ歩き出す。いつだって若者は当然のように現実に絡め取られていく。
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