カラン

羊たちの沈黙のカランのレビュー・感想・評価

羊たちの沈黙(1990年製作の映画)
5.0
レクター博士のシリーズ。トマス・ハリスの小説『レッドドラゴン』をトーマス・マンを監督に起用して映画化するも興収面で惨敗したディノ・デ・ラウレンティスは、本作『羊たちの沈黙』の映画化権を無料で手放したらしい。結果的に、本作はアカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、脚色賞と、主要5部門を制覇し、1900万ドルの予算に対して2億7000万ドルを超える興収を得たサイコホラー。

本作の原作を読んだのは30年くらい前。中学校のクラスメートが面白いから読まないかと恥ずかしそうに文庫本を勧めてきた。小説は面白かった。バッファロービルの暗視スコープを装着した姿の写真がのっていたと思う。その数年後にビデオを借りてきて本作を観た時は、特に何も感じなかったのは、小説でネタバレされていたからである。いや違う。設定のネタバレでしか、映画を観れなかったからである。本当に素晴らしい映画はネタバレに還元されない。課金してネダバレしている評論家の営業妨害をするつもりはないが、映画を脚本上の設定のネタバレに還元するのは、この映画を初めて観てあまり面白くないと思った高校生くらいの私と同レベ。映画は脚本を超越する。

今回はレンタルBlu-rayで嫁と一緒に視聴した。嫁は☆5だそうで、きゃーきゃーしてた。2chステレオと5.1chサラウンドがあったので、サラウンドを選択した。画質はフィルムグレインがしっかりでており、2000年以前の映画の風合いがちゃんと感じられてよかった。配信される昔の映画の中には、いつの時代の映画なのか分からない、つるっとのっぺらぼうになっていたりするものがある。フィルムグレインを傷やノイズと勘違いしてる人が配信を管理してたりしてね。


☆2つの分析

『フィルムメイカーズ・アイ』という映像分析の小ぶりの本(日本語第1版)のなかで、著者のグスタボ・メルカードは『羊たちの沈黙』のショットを2度分析している。1つは主観ショット(POV)の分析においてであり、レクター博士とクラリスのセッションでカットバックをしながら、アンソニー・ホプキンスの超クロースアップになっている場面。このクロースアップを主観ショットの分析で取り上げるのは、さすがの観察であると思う。

2つ目は、象徴ショットの分析で、冒頭の屋外のトレーニングコースで走っていると上官のクロフォードが呼んでいると声をかけられて、屋内のエレベーターに乗り込んだシークエンスである。エレベーターに乗ると、10名ほどFBIアカデミーの制服を着た男たちに囲まれる。画面手前でクラリスの両脇にいる男たちは小柄なクラリスを見下ろしている。クラリスは目を合わせようとせずに、画面に映っていないエレベーターのフロアーを示すライトを見上げている。下腹の前で両の手を握っている。ミドルレンジのハイアングルになっており、いかにもマッチョな男たちに囲まれて所在のないクラリスが、子宮を守るように下腹部に手をやっているのは偶然ではないという分析である。

この象徴ショットの分析に関して、その記述を読んだうちの嫁は「えー何言ってるの〜、関係ないでしょ?」と。関係はあると思うぞ。(^^) 知的で品のある、しかし、小柄なジョディー・フォスターのキャスティングを正当化するならば、関係がなければならない。ヌードになるわけでも、劇太りや激やせをしたわけでもないが、種々のおじさんたちを引き寄せる若々しい清廉な魅力と、逆に、おじさんたちに吸い寄せられていく危うさを体現した演技は主演女優賞に実に相応しい。その彼女をキャスティングしたのはまずもって、若い女と狂人たち(レクター博士&バファッロー・ビル)とを接触させ対峙させた際のグロテスクさを狙ってである。若い清廉な女が捜査をすれば狂人たちとの接触を通して常時グロテスクを保持できる。

したがって、今問題にしているエレベーターのシークエンスで、「早く着かないかな」という内心が聞こえてきそうな表情で固まっているクラリスをセンターに据えたことで、コミカルでソフトな感触に仕上がっているのだが、ここでクラリスが自分の子宮に不安と緊張を感じるというのは、映画的に非常に優れたショットであり、グスタボ・メルカートの象徴ショットの分析も正しいと思う。このシークエンスはレクター博士に会いに行く前であるのだから、なおさら尾を引くショットとなり、予兆として機能し、映画内で息の長いショットとなる。
 
☆連係する象徴ショット

グスタボ・メルカードの本は薄くて読みやすいし、何より楽しいのでお勧めである。日本語では第2版が出ている。ただこの本は『羊たちの沈黙』の分析の本ではもちろんないので、上記の分析を『羊たちの沈黙』の全体に落とし込むことはない。しかし、『羊たちの沈黙』の本当の持ち味は、個々のショットというよりも、その連続性なのであり、そこを感じないと『羊たちの沈黙』を観たことにはならない。

この映画は小さなショットの潜在的な連係がよい。例えば、夜の都市を走行する車のサイドガラスのあたりにカメラをマウントして、セダンの鼻先を映すショットは、夜景の光の中で、上下に揺らぐ。アメ車の長い鼻先が小さくたわみ、不安が煽られる。また、同じことは夜間に飛行する航空機の横面を捉えたショットも同様で、小さくたわむ。エスタブリングショットを動体でやっているようだ。微妙にきしむ乗り物で潜在的に不安を持続させる。上に述べたエレベーターで芽生えた緊張を、水面下で、持続させる。

☆もう一度、POV

レクター博士とクラリスのクロースアップ主観ショットのカットバックの話に戻そう。

クラリスはレクター博士を騙したことになっている。捜査に協力してバッファロービルに関する秘密を教えれば、浜辺を散歩できる場所に移送すると約束したのだ。しかし、このクラリスの嘘は、実は、意味がない。まず、レクター博士はバッファロービルの秘密を知らない可能性が十分にある。それにも関わらず、レクター博士を嘘で釣ることができたと思うことで、クラリスの転移を、つまりレクター博士への幼児的な愛を、隠してしまう。対して、レクター博士はクラリスの精神発達上の出来事の詳細を語るように要求する。クラリスはギブアンドテイクだと思っているが、クラリスだけの心の真理を語ってしまうことで、レクター博士がクラリスの心を所有する。つまり、彼の眼差しが彼女の内面にますます取り込まれていく。

こうしたクラリスの精神の中へのレクター博士の侵入が進行していくプロセスを、映画はカットバックで2人の顔を交互に映しながら描写する。特に眼差しを捉えるためにPOV(主観ショット)でのクロースアップが用いられる。目を離せないのに、まともに見られない、震える眼差しの力動を演技の次元で達成するジョディ・フォスターに改めて拍手したい。カメラはジョディ・フォスターの演技に呼応するかのように、彼女の眼差しに同一化して、POVでアンソニー・ホプキンスの顔が映し出される。超クロースアップであり、周知のように恐るべき圧力でその禍々しさは画面からはち切れている。この超クロースアップの圧力は、つまり、レクター博士の顔の巨大さは、クラリスの転移の強さを物語り、クラリスは事件の秘密を知ろうと自らの心の真理を暴露していく。心を語れば語るほどレクター博士の眼差しがクラリスの心の内側に入り込んでいく。

そこでカットバックすると、クラリスの怯えながら惹かれている顔がクロースアップで映される。しかし超クロースアップではなく、バストショットに近いクロースアップで。これもPOVだからである。クロースアップを微妙に使い分けているのは、主観ショットだからである!複数の人物の主観ショットを導入するならば、どう連係させるかが問題だ。このようなチャレンジこそが映画監督らしい冒険なのだと主張したい。ジョナサン・デミのストーリーボードはたぶん粘着質なのだろう。素晴らしい脚本への省察であり、脚本を超えて映画的な映像を生み出す読解力は監督賞に相応しい。

☆バッファロー・ビルのPOV

上記のPOVクロースアップのカットバックは2回登場するバッファロービルの暗視スコープの間にある。1回目は犠牲者を闇の中で観察するシーン。2回目の暗視スコープの前には、クロスカットの展開で黒々としたFBIの航空機を捻らせた動体エスタブリングショットを入れて、映画の通奏低音としての不安を増幅しておく。さらに、バッファロー・ビルは女たちの皮膚の一部をこめかみのあたりにつけて、裸で股の間に自らの竿を挟んで、カメラの前に立つ。暗視スコープもビデオカメラも、眼差しを象徴化する。それらの偏在し、漂い、内面にまで入り込んでくる眼差しは、2つの暗視スコープPOVの中間にあるレクター博士の眼差しと呼応し、ラストにおいて、闇の中に出現し、クラリスにつきまとう。

本作はPOVの映画であり、今ではお分かりいただけるであろうが、3つのPOVを連係させて、結集させるのである。だから、最後の暗視スコープによるPOVは、映画が細かい作業を経て、ショットを入念に連係させながら、丹念に作り上げてきたシーンなのである。暗視スコープと言えば、キャスリン・ビグローの『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012)だが、それと比べると本作の闇の中でのアクションは少し足りなかったかもしれない。脚本上の設定が前にでており、ちょっと観念的なのである。

なお、エンドクレジットで、バハマにやってきたレクター博士を映してから、姿を消滅させる。タル・ベーラの『サタンタンゴ』(1994)に影響を与えたかもしれない。穏やかな風で塵が揺れる中南米の街の《無人》ショットのエンディングである。レクター博士が見えなくなったのだ。

撮影監督は、タク・フジモトさん。ジョナサン・デミといくつか撮っており、『ハプニング』(2008)まではナイト・シャマランと組んだ方。




レンタルBlu-ray。
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