青山祐介

プリンセス・シシーの青山祐介のレビュー・感想・評価

プリンセス・シシー(1955年製作の映画)
3.5
エルンスト・マリシュカ「シシィ(SISSI)」1955年 オーストリア、西ドイツ映画

≪永遠の女優、ロミー・シュナイダーに愛をこめて≫
『私はシシィなんかじゃない!』ロミー・シュナイダーの叫びが聞こえてくるようです。ロミー・シュナイダー18歳、女優ロミー・シュナイダー誕生の映画といわれています。
国民に絶大な人気のあった、オーストリア=ハンガリー皇妃エリザベートを演じたロミーは、皇妃の化身であるとまでいわれ、ヨーロッパ中に反響を与えます。「シシィ」がロミーの女優としての運命を決定づける映画となりますが、一方、「シシィ」の名が彼女の人生を翻弄することにもなります。世紀末ウィーンの郷愁に彩られた世界で、シシィとロミーを重ね合わせたこの映画は、女優としての運命を決定づけるとともに、時によって損なうことができない、ヨーロッパの映画史にのこる特別な、女優ロミー・シュナイダーという永遠の女神の記録だからです。シシィ=ロミーの人気は、同じ年の1955年と1957年に、残念ながら平凡な作品である二本の続編が作られたことからも頷けます。

しかし、ロミーは4作目の映画企画が持ち上がった1958年、マリシュカの商業的な思惑や国民の熱い想いに反発するかのように、シシィの続編に出演することを拒否します。
ロミーは祖国オーストリア=ドイツを敵にまわし、国民の怒りをかうのです。『私は絶対にシシィなんかじゃなかった…分かっていたのは私だけ!』と。この拒否の瞬間こそが、悲劇の女優ロミー・シュナイダーの本来の誕生と言えるのではないでしょうか。

ロミーは『私はシシィなんかじゃない!』という言葉と裏腹に、むしろ現実の皇妃エリザベートに近い存在なのかもしれません。そして、20歳をこえたロミーは、その美しさもさることながら、クルト・ユルゲンスやカラヤンとのゴシップ、ホルスト・ブーフホルツとの初恋、パリへの出奔、アラン・ドロンとの恋と別れ、ヴィスコンティ、オーソン・ウェルズとの出会い、ドイツ語からフランス語への変貌をとげながら、シシィではなく、女性としても、女優としても、まったく新たな自分と向き合っていかなければならなかったのです。シシィになることの拒否は、女優としての開眼であり、衰退するドイツ映画の殻を打ち破り、フランスの女優として生きることを選択したロミーの決意に思えてくるのです。ロミー・シュナイダーのその後の波乱の人生を知る私たちには、シシィの凛としたたたずまいが、≪ミューズ≫に、また≪女神モイラ≫に、あるいは≪女神メルポメネ≫に重なって見えてきます。

映画「シシィ」には、若きロミー・シュナイダーのすべてが映し出されています。しかし、シシィの名が、その美しさや心だけでなく、ウィーンの華麗な宮殿、衣装、カツラ、仕草、コルセットやペチコートにいたるまで、ロミーのまわりのすべてにまとわりつき、彼女を締め付け、苦しませることになります。しかし、シシィであることを拒否することによって、ロミーは、いままでの殻を打ち破り、女優としての魂を解き放ちます。

『私はシシィなんかじゃない!』と叫んでも、「シシィ」が女神であるが故に、その名はロミーの人生につきまとって離れることはありません。1972年にロミーはヴィスコンティの「ルートヴィヒ」で再びエリザベート皇妃を演じることになります。その愁いをこめた美しさ、輝き、悲しさ、儚さは、もはや「女優」をはるかに超えたところに立つ「女神」の姿です。
青山祐介

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