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地獄の黙示録のTenKasSのレビュー・感想・評価

地獄の黙示録(1979年製作の映画)
5.0
2016/9/3 立川シネマシティ
2017/10/15 丸の内ピカデリー爆音映画祭

何度見ても良い。
なぜ好きかは分からない。
コッポラが監督として別に好きなわけじゃない。
『ドラキュラ』は好きだけど…

コッポラが金をドバドバドバドバ使いまくりクッソ気合いを入れたが、災難に見舞われまくり出来たのが、この商業映画かも分からぬ軍事関係経験者が誰1人として役者にも主要スタッフにも居ない妙竹林な戦争映画だった。というだけで最高。
もはやコントロール不能な怪物として製作側にも見る側にも立ちはだかり、世界の混迷そのものを具現化する。だから面白い。

その意味で完全版は明らかにイマイチだと思う。結局この怪物をコントロールしようとしてもどうにもならないのだという事実だけが明らかになったに過ぎない。


理性的な判断が敗北を招く。
愛を知りながらも原始的な裁量を持つものが、混迷なる時代を生き抜く新しい時代の人類であるべきであり、それこそが純粋なるものだ。というカーツの思想。
カーツのいう欺瞞の悪臭。
ウィラードのいうクソ溜め。
それこそがベトナム戦争。突き詰めれば社会。複雑混迷を極めた70年代である。
この中においての理性的であるというのはもはや矛盾を抱えすぎている。それらの論理を超越した領域に到達すべく、ウィラードたちは、川を遡り、次々とせまる混迷に立ち向かおうとしてイカれ始める。
混迷な世界を生き抜くためには、欺瞞への裁量が必要だ。それは原始的な本能によってのみ解決される。欺瞞を暴力的に断ち切るか混迷に身を委ねるかのどちらかである。
原始的な本能というのはこの映画においてフェイスペインティングによって表象されると考えられる。フェイスペイントを行うのは、カーツ、ウィラード、ランスの三人であり、彼らは理性的判断を越えた先に存在した。
カーツ、ウィラードは対となる存在であり、モノローグにもある通り、ウィラードはカーツの物語を背負わなくてはならない。
カーツは理性を断ち切ることで混迷と向き合おうとした。
「爆弾を投下し、全てを殲滅せよ」の解釈は多様だが、理性を断ち切った混迷への解決法と考えられる。
ウィラードは理性的判断によって最終的にカーツを殺す。しかし彼はカーツの思想を物語を引き継ぎ、背負わなくてはならない。
彼は空爆要請もせず、再び混迷のベトナムへと戻るのだ。
殊に問題はランスで、ランスによる混迷への対処というのは、薬物による意識の混迷化。混迷に対し混迷で紛れるという対処である。
ある種の幼児退行や、原始への回帰を思い起こされることであり、これもまた、理性的判断をかなぐりすてるという一種の行為である。

あと正直言って、キルゴアを演じたロバート・デュバルは正に怪演だとは思いますが、それがこの映画の面白さの核だと思っている人はマジでどっか消えて無くなって欲しい。
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