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冷たい水のshishiraizouのレビュー・感想・評価

冷たい水(1994年製作の映画)
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台湾映画であるエドワード・ヤン『カップルズ』(96)にフランスの少女、ヴィルジニー・ルドワイヤンが登場する。その起用のオリジンとなったのは、ブノワ・ジャコー『シングル・ガール』(95)の彼女ではなく、『冷たい水』(94)のルドワイヤンだった。そのフランスから台湾への“越境”は、日本でおこなわれた。

アサイヤスの映画がはじめて日本公開されたとき(『パリ、セヴェイユ』(91))、そのプロフィールには手がけた「カイエ・デュ・シネマ」の香港特集が注目される、と短くあった。
『パリ、セヴェイユ』の段階ではいっけんごくふつうの現代フランス映画作家にみえたアサイヤスの、アジアへの視線。その後のマギー・チャンや大森南朋の起用、グローバル化への感性(オタク的なそれも含む)・・
アサイヤス自身もハンガリー系の移民の子という出自をもつ ( これが『冷たい水』冒頭の、おばあさんによるハンガリー動乱の思い出語りとなる ) 、周縁的/越境的存在であり、アジアの周縁性との親和がある。
その生来の感覚は、後の『クリーン』や『アクトレス』での、主人公たちが辺境から辺境へと生きてゆく精神性とつながっているように見える。

台湾/香港のニューウェイヴに対して、世界的に〈新浪潮の高揚をいち早く捉えた画期的特集〉がカイエ1984年9月号で、〈現地に取材したうえで力のこもった記事を書いたのは、同誌同人のシャルル・テッソンとオリヴィエ・アサイヤス〉で、〈台湾での侯孝賢や楊徳昌との出会い〉もあり〈興奮に満ちた中国語圏映画発見〉があったようだ。
アサイヤスのこの熱狂について、野崎歓は〈七〇年代の極左路線、および理論過剰時代によって()荒廃したフランス映画青年たちの心に香港・台湾映画の魅力が沁みとおっていった〉と解説する。


アサイヤスが回想する。〈僕が最初に台湾に旅したのは一九八四年の春のことだ。僕は、当時、シャルル・テッソンと香港にいて「カイエ」の香港映画特集を準備していた。当時、批評家のチェン・フークー(後にエドワード・ヤンのシナリオ・ライターになり、次いで映画作家になる人だが)の招待で、僕は台北にやってきた。彼は夕食会をしてくれて、その席で、僕に侯孝賢やエドワード・ヤンや、エドワードの処女作のカメラを担当したばかりのオーストラリア人()クリストファー・ドイルを紹介してくれた。僕は、彼ら全員と深い絆を結んだが、おそらくもっとも簡単に友情を抱いたのは、英語で話すことのできるエドワード・ヤンとクリストファーだった。〉
ヤンは、物心つくまえに家族に連れられて台湾に移ってきた外省人だった。意志せざる移民、といった共通する生い立ちも、二人のあいだにシンパシーを生んだのではないか。

こうして、オリヴィエ・アサイヤスとエドワード・ヤンの、長い友情がはじまる。

それから10年。1994年。
5月のカンヌ出品後、日本では9月26日、京都国際映画祭で初上映された『冷たい水』( 東京のファンがこの映画を観る機会を得るには、翌95年1月21日、アテネフランセ文化センターでのカイエ・ジャポンが催したシネクラブ上映まで待つ必要があった)。
同映画祭では前日の9月25日、エドワード・ヤンの『独立時代』(のちの邦題は『エドワード・ヤンの恋愛時代』)が上映されていた。

26日の上映後、京都ホテルでアサイヤスとルドワイヤンの記者会見が行われる。〈記者会見が二〇分ほどで終了した後、唯一熱心に彼らを離そうとしない台湾のジャーナリストたち〉(坂本安美)がいたらしい。台湾滞在時に交流がすでにあったのか、台湾ニューウェイヴを世界に発信してくれた彼への熱い肩入れがあった一団だったのかも知れない。

その前日の9月25日、エドワード・ヤンはインタビューに応え、アサイヤスについて〈彼は、私の作品について書いてくれた最初の批評家で、もう長いこと友達なのだけど、私は彼のことが大好きです。僕の所にインタビューをしに来たときには、まさか彼が映画監督になるなんて想像もしませんでした。今回の作品は、カンヌの前に見せてもらったのだけど、本当に自由な方法で撮っていて、好きな作品です〉と語った。
カンヌ出品前にヤンは『冷たい水』をアサイヤスから見せてもらった。そのような関係性が築かれていた。
だから、ヤンがフラットにヨーロッパ映画諸作に接するなかで、単純にルドワイヤンという魅力的な女優に目をつけた、というよりは、ヌーヴェルヴァーグ的な朋輩意識のある映画作家のミューズを引用するようにして、ルドワイヤンが起用されたのだった。

〈アサイヤスが自作の『冷たい水』に主演したヴィルジニー・ルドワイヤンをヤンに紹介し、彼女がヤンの『カップルズ』に主演することになる。〉(梅本洋一)

〈インタヴューの最中に監督を遮って自分の意見を述べようとする生意気さや、大きなケーキをほおばりながら京都の街を上映会場へと小走りする子供っぽさ、若さと美貌とともにそんなチャーミングさを見せてくれたルドワイヤンは、まさにこの映画祭の真っ最中にアサイヤスからエドワード・ヤンへと紹介され()『カップルズ』に出演する〉(坂本)

〈そのとき私の映画で主演したヴィルジニー・ルドワイヤンが一緒に日本を訪れていて、この出会いが『カップルズ』で彼女に役をオファーするきっかけとなる。私はこのコラボレーションの仲介人を演じた〉(アサイヤス)

『カップルズ』からまた10年の時が流れた。そのあいだに撮ったのはわずかに『ヤンヤン』(00)の一本のみで、2007年、エドワード・ヤンはこの世を去った。
〈私にとっては、単純に、友人をなくしたことが辛い。〉
アサイヤスによる追悼文は、フランス語だけでなく、英語でも綴られた。
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