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サッド ヴァケイションのshishiraizouのレビュー・感想・評価

サッド ヴァケイション(2007年製作の映画)
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青山真治追悼
当時の自ブログより転載


今現在的に、映画が抱えている問題について、青山真治監督が真摯に危機感をかんじ、幸福な〈あるべき、確固たる、完璧な映画〉との合一というシネフィル的耽溺に向かわない姿勢を(実作で)示した()。それは結局、〈他者〉とどのように相対するのか、〈他者性〉がどのように映画を、そして人生を豊かにしてゆくのかという「人生の問題」として、映画制作の時間が生きられた。そういう幸福さが、『サッド ヴァケイション』という映画に刻印されていると感じられました。

()ここでは過去青山映画に不可避的に漂っていた胡散臭さが吹き払われていて、なんと“素朴な”好感をもつことになった。『サッド~』で採用された主従でなく用いられた2キャメという撮影スタイルは、人と人との〈対話〉〈繋がり〉というハートフルな要素を、どうしたって頭でっかちな監督の自我に映画が澱みがちな青山真治の映画世界に、ごく自然な形で導入することに成功した。
例えば『EUREKA』でも、『シェイディー・グローヴ』でも『月の砂漠』でも何でもいいのですが、それらで描かれていた〈愛〉や〈救い〉や〈つながり〉は結局、〈シネマ〉や〈観念〉や〈作家性〉や〈主題の展開〉の下位概念に甘んじ、悪くいえば、何らかの賞賛を得るための、あるいはある種の議論を豊かに組織するための円滑的構築物として、〈映画〉の「ある一部」を構成するものに過ぎなかったような気がしなくもない。

しかし、〈シネマ〉を虐殺し、聖典的厳格さもシネフィル的高踏もその表情に陰りをおとさない『サッド~』にある〈感情〉や〈救い〉や〈つながり〉は、映画の構成部品ではなくてただそこにある〈感情〉で〈救い〉で〈つながり〉で、それが愛しい人への優しいまなざしのような空気となってスクリーンの中と外に吹き過ぎてゆきました。

2008.1
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