shishiraizou

あばずれ女のshishiraizouのレビュー・感想・評価

あばずれ女(1979年製作の映画)
5.0
必要に駆られての、少女と青年とのひそひそした囁き声。ふたりしか登場しない場面が大部分を占めるこの映画を、その声の小さな粒子が満たして、親密さ、があらわれる。その親密さは、いわゆるストックホルム症候群とも違うし、あるいは被害者と加害者の力関係が逆転するような作劇とも違う、加害者/被害者/障害者/少女といったカテゴライズの解体のされかた。孤独な魂をもつマドとフランソワが、ただそこにいて、生きている人との接点をさぐる。その一歩一歩の、言葉や仕草のひとつひとつが、懸命かつユーモラスに映るが、そのさまは批評的に眺められているのでも、肩入れされているのでもない。さみしい心は悲劇的にではなくて、ただ出来る可動域で言葉を発し、アクションを起こす、その積みかさねを、ドワイヨンはジャッジしないのだ。

*

なんとも言えない妙な色の、脇やら袖もとにほつれの見える、薄手のサマーセーター。マドという少女の着つづけるそのセーターには、貧しさの表象というだけではない、ある落ちつく肌触り、感触があります。
一方の誘拐する側の青年フランソワも、多くは同じようによく分からない色のセーターを着て、少女のそばに寄り添う。(その彼が、似合わないパリッとしたシャツなどに袖をとおすとき、この奇妙な共同生活はたびたび脅威にさらされることになる。)
二人を包む薄く頼りない毛糸の膜は、アドレッセンスの入り口で、社会からも人のぬくもりからも隔てられた、孤独な感じやすい心を護る、幼子のタオルケットにも似る。

春だろうか夏だろうか。強烈な陽射しはないけれども、はずむようにして豊かに繁る道の脇の雑草や樹々の緑はふんわりとして、なにか楽天的なやさしさが漂う。いわゆる“事件”は、ここで発生するし、荷台に少女を隠しての運搬や、とうもろこし畑に隠れるマドと老婆のやりとり等、物語としてはサスペンスあるシーンでも、この青々とした柔らかいなかでの出来事は明るい、束の間の安らかなまどろみの時間に感覚されます。

それに対して、ざらざらした、硬く落ちつかない感触ーー、フランソワが少女と共同生活を過ごす離れの石造りの納屋は、堅牢に見えて窓からの視線という脅威に晒されている。社会に接点を持とうとするフランソワを拒絶する街並み。マドがベッドで母親の帰りをそわそわと待機する、ゴワゴワした布団の質感。向けられる母親の背中は、柔らかい肌と肌の接触ではなくて、爪をたてて掻くという硬質の触感として、マドの心に孤独をつのらせる。

数十年ぶりの再見で、すっかり忘れていた冒頭の場面。墓場だろうか、潮干狩りの熊手のようなもので、落ちているなにかをザリ、ザリと硬い音をたてて集めているふたりの中年女性。
それがギザギザに割れた窓ガラスの破れ目から見えるという二重の〈硬さ〉から映画ははじまり、それを教室の端、窓際の席から見るともなしに眺めているマドは、いたたまれない様子で居場所を得ることが出来ない。はじまりから、硬い感触による孤立が予告されていた。
(他にも忘却していたこと。各シークエンスはフェードアウトで閉じられ、ラストカットのみストップモーション。この毎回の暗転によって、現実的な痛々しいとも見える出来事が、“おとぎ話”的なヴェールに包まれる。)

さて、母親の背中をマドが掻く動作(それは冒頭、墓場での熊手の硬性場面の反復でもあった)をなぞるようにして、今度はマドが背中と首筋を、無防備にフランソワにゆだねる。彼はその背に首筋に、(硬性のものではない)やわらかく湿った、薬剤を塗布する。それは誰の快楽のためでも、どちらの欲望のためでもない、無償の動作。患部が癒えたころ、ふたりの生活は終わりを告げる。

*
ラストシーン。現場で犯行を再現させられるふたり。「被害者の少女」「加害者の障害ある青年」とカテゴライズされるための儀式。あくまでただのマドとフランソワだったものが社会化されてしまうことに、マドは「死んだみたい」と表現するのだった。


**

上映後の大寺氏の講義では、フーコー編著『ピエール・リヴィエール 殺人・狂気・エクリチュール』とその映画化であるルネ・アリオの『ピエール~‥』の制作スタイルと主演者が『あばずれ女』にも引き継がれ、そのイメージを継承している解説がなされていた。
ピエール・リヴィエール事件は実父を救うために家族を惨殺した事件で、『あばずれ女』の出来事とはだいぶ異なる。
それよりも同じフーコーの『性の歴史 Ⅰ』(フランス刊行76年11月、『あばずれ女』制作の直前と言える同時代性)で触れられていた、頭が弱いとみられていた農夫が、少女と性交未然のかかわりをもって告発された挿話と近いものがある。以下、ラストシーンに関連しそうな、その前後の記述からいくつか。

〈彼はいささか頭が弱く、()お恵み程度の食事を与えられて最もひどい仕事をあてがわれ、納屋か馬小屋に泊めてもらった。その男が、畑の傍で、少女にちょっと愛撫してもらったというのだ。〉
〈取るに足らない快楽が、ある時点からは、単に集団的不寛容の対象となるだけでなく、法的行為の、医学的介入の、注意深い臨床医学的検査の、そして大がかりな理論構築の対象となり得た()そこに性的堕落の可能な徵を見つけ出そうと()彼を問いただし()そういう対象(オブジェ)に仕立てたのである。〉(渡辺守章訳)
shishiraizou

shishiraizou