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あのこは貴族のshishiraizouのレビュー・感想・評価

あのこは貴族(2021年製作の映画)
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冒頭、夜の銀座の街並みが視界を流れてゆく。タクシーの後部座席からの視点。
のちほど登場する、田舎のシャッター商店街との(富裕層/庶民)対比としてあらわされていますが、どうも壁の質感も色合いも、富裕層の意味指示作用として機能しない曖昧なものにとどまって映る。水原希子が帰省して改札から出ると、弟の車と目の前にひろがる大通りごしの田舎の広い風景の鮮やかさ、シャッター街の質感、その弟が先輩譲りのシャコタンを運転しその後方から撮られたカット尻の微妙に長い場面の艶やかさに比べると、銀座の画面の連打が精気ないものに見えるのは、富裕層の生活の感触に作り手がこだわりきれていないからなのでしょうか。

しかし、運転手つきの自家用車が金持ちの表象としてパターン的に出てくるスナック的な邦画と違って、タクシーだかハイヤーだかを常用するかんじが趣きふかく、運転手との距離感がその都度ちがうのも、不思議な魅力に感覚します。

章立てして区切られた物語は、断絶を示して、しかし、やがて階層の異なる女性たちの奇妙な連帯があらわれてくる、そのやわらかさ。さまざまなタイプの“生理的にムリ”な男性が散りばめられた、その世界の感触が秀逸で、女性同士の連帯の着地をふんわりと準備する。主人公たちと階層は同じでもかんじる苦しさが少しちがう、山下リオと石橋静河の、たんに友人と固定されたキャラクターではない、関係性の揺らぎにハートがある。
山下リオから一緒に起業しないかと持ちかけられたときの水原希子のセリフ。けっして安定しきった信頼だけでない関係に、片方がおそるおそる一歩踏みんでくれたときにかんじる、温かさ。そして山下リオの腰まわりの堂々とした厚みに歳月の切なさもありますが、同時期のハズの『樹海村』での彼女のデビューしたてのような若さはいったいなんなんだろう。
門脇麦の常に近くに、オプション的に配置されているわけではない石橋静河は、関係性も距離も少しずつ変わりつつ、無条件の応援者というわけでもないストレスない距離を保つ。それが、ささやかながら人生いろいろあって、パートナー的に人生を共にする姿を、門脇麦の元夫が斜面の上から見つめる。彼の背後には上昇する階段が続いている。
女性たちは、人力で、自らの足で、三輪車(門脇・石橋)/自転車(水原・山下)をこいで、フラフラと曲線を描きながら、楽しそうに人生をすすめてゆく。

他人によって自動的に次の地点まで運ばれてゆくタクシーから降りたち、自転車で疾走する水原希子
を呼び止める門脇麦はそのとき、何かの一部であることをやめて、“わたし”になった。

夜、橋のむこうの、自転車で2人乗りしてはしゃいでいる女の子たちに、こちら側から手を振りエールをおくる門脇麦は、彼女/彼女たちを応援しつつ見守る、私たち観客の視線でもあるのでしょうか。いくぶん勾配のキツそうな昇り坂を、見知らぬ女子たちは楽しそうに漕いでゆくのだった。

* * *

序盤、家族に持てあまされ、居心地の悪い倦怠の時、門脇麦はジャムの瓶に指をつっこんで舐めている。
この映画には、ネットリとした粘度の高い食べ物から、サラリとした液体への移行、という感覚がある。「ジャム」舐めよりのち、門脇麦はレストランで高良健吾と出逢う。雨がサラサラと降っているなか、飲み物はどうするかという会話になり、金持ちの意味を負う記号としてのゴチャゴチャした飲み物に向かわず、ラフに「ビール」を注文する。ここに何か、心がほぐれる作用がある。
居心地の悪さ(粘度高)→居場所を得ること(粘度低)。

居場所のない、生きづらさを感じている水原希子が帰省して母親の作った「里芋」の煮物を食べる。持っていけという母親に、拒絶の意を示す彼女。再会した山下リオと、東京のカフェらしき店で話をし、山下のおそるおそるの提案にのる水原。晴れ晴れしい気持ちにみたされた二人は、メニューにあるかどうかも分からない「ビール」を高らかに注文する。(会話の前段では、肛門まわりの脱毛により、粘度の高い大便がつるりと拭きとれる話題がでる)

腐れ縁にちかい関係の高良健吾と水原希子が、中華料理屋で別れ話をする(粘度高→粘度低への移行)。何を食べているのか判然としませんが、中華料理的な油ぎった気配を料理も店内も漂わせつつ、二人は「ビール」を酌み交わす。

水原希子の触れるネットリ→サラリには、触覚的な快楽が確かにありますが、貴族側、門脇麦周りのそれは触感や匂いを伴わない、なにか抽象的なものにとどまっています。サラリとしているハズのアールグレイティーからは、香りが感じられずに、記号としてだけ感知されました。

生活の官能に欠ける門脇麦ですが、彼女をとりまく異性にはその気配があり、姉婿の山中崇は恋愛には至らないものの彼女との空間(数回ある二人だけのシーン)につくられる穏やかな磁場には、独特の寄り添うような魅力があります。

高良健吾は対面すると構えるような硬さを示しますが、離れると官能の粒子が漂う。門脇麦の近くでアルバムを見る場面や、水原希子と中華料理屋で向かいあう場面の、よそ行きな空気。それと比べて、大学のキャンパスで離れた場所から外部生たちに見つめられる屋外のシーンや、葬式の場で、ガラスの向こうをみると大人たちと込み入った話をしているらしい彼が見える場面。その魅力。
レストランでの出逢いの場面、背中を向け、自分でないほうを見ているとき、門脇麦は彼を愛の対象と認識した。対面しないことの魅惑。
彼女から距離のあるパーティー会場、名刺のない水原希子に乞われて、自分の名刺を渡してそのスーツの背中を下敷きに使わせる高良健吾。その背中の厚みと体温、布の感触。そこに最大の官能が感覚され、関係が露呈することで、夫婦は破局へと向かう。
頭ポンポンを拒絶する決定的な別れの場面、縁側で外を向いている高良くんの背中が、門脇麦の目にうつる。切り捨てる対象として割りきれない、温もりのある、かすかな官能の徴し。
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