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悲しみは空の彼方にのKuutaのレビュー・感想・評価

悲しみは空の彼方に(1959年製作の映画)
4.9
「俺の思うサーク」と、実質的な遺作である今作の特異性について書きます。くっそ長いです。一部内容は「間奏曲」と重複します。

▽空虚な二項対立
サークは、アメリカ白人社会を舞台にしたメロドラマを得意とする。

「真実の愛vs夢の追求」「自由意思vs運命」といった対立軸の中で、キャラクターは「葛藤」しながら、生きる道を見出していく。

表層的に見れば、テーマはこれだけだ。だけど、サークの映画にはもう一段仕掛けがある。

サークはナチスから逃れるためにアメリカに亡命し、「典型的なハリウッドのメロドラマ」を撮り続けた。

彼はアメリカの風景やハリウッドのセットを、過剰に美しく、色彩豊かに描き出す。映画の嘘の強調として機能している。

彼の映画には、非アメリカ人が見たアメリカ社会の矛盾が詰め込まれている。上昇志向に固執し、金と成功を夢見て華美な衣装に身を包む、白人の右往左往。その愚かしさを、メロドラマの体裁で間接的に描き出す、アイロニカルな作風と言える。

真実の愛か現実の成功か、といった二項対立で悩んでいる登場人物は、結局はアメリカ的な成功のステレオタイプから一歩も逸脱していない。ただメロドラマの枠組み(枠組みはサークのキーワードだ)にとらわれ、現状肯定しつつ、小さな変化に満足している。

▽「演じる女」
今作には白人の母娘と黒人の母娘、2組の主人公が登場する。前者は、典型的なサーク作品の「虚飾だらけの米社会に取り込まれる白人」の運命を辿る。

白人の母、ローラは女優であり「夫から演じることを教わった」。CMのモデルを務め、上っ面の嘘をつき続ける。序盤に嘘で成功するシーンがあるので、その後も常にこいつは演じているのでは?という疑念が付き纏う。

恋人候補の白人のスティーブは写真家であり、フレームに人を収めるのが仕事。彼が撮った広告の写真は、白人のおっさんの太ったおなかが「上へ下へ」動く様子を捉えている。白人は、上下の移動にしか興味が無い。

階段を降りるローラと、上がる黒人の母アニーのすれ違いで幕を開ける今作は、とにかく階段が何度も出てくる。2階へ駆け上がっては、階下へ降りるアクションを繰り返す。今作中で夢はRainbowと呼ばれ、彼らは上を見上げ続ける。

▽愚かなやり取り
ローラがスティーブにプロポーズされる場面は、サーク的な面白さが詰まっている。

廊下で立つ2人。ローラは否定的な返事をする。会話は切り返されない
→2人の後ろを「おっさん」が通ろうとやってくる
→避けるために2人の立ち位置が入れ替わる
→会話の切り返しが始まる
→結局ローラは「愛してるわ」と言う
→キスしようとするが「ドア」が開く音で中断
→移動して立ち位置が入れ替わる
→キスしようとするが「電話」で中断
→仕事の依頼が入り、ローラは仕事を優先。2人の関係は決裂する。

おっさん、ドア、電話の乱入で2人の関係はクルクルと反転し続けている。彼らはこうした「外的要因」に右往左往しているだけで、どこにも自由意思はないのに、本人は自信満々に話している。この滑稽さがサークの描くアイロニーだ。

ローラはこの場面のあと、影のかかった曖昧な明るさの中で「私は上り続けるの」と言い、階段を降りる。結局、スティーブではなく売れっ子脚本家とキスするとき、彼女は窓枠のフレームに閉じ込められる。

▽白人社会の外にあるもの
今作がサークにとって特異的なのは、こうした白人のメロドラマは前半で終わり、後半からは黒人親子アニーとサラジェーンの物語にシフトしていく点にある。

アニーはローラの生きる虚飾の世界の片隅で、周囲に適応しながら生きている(彼女も小さな嘘をつき続けているが、その目的は利他的である)。

サラジェーンは、黒人の血を受け継いでいるが、白人の見た目をしている非常に複雑なキャラクターだ。

公民権運動以前の50年代のアメリカにおいて、彼女は生まれながらにして「白人を演じる」ことを社会的に求められている。「女優」ローラの映し鏡として、悔しさや嫉妬心を抱く彼女は、成功のためではなく、生きるために演じている。

強調したいのが、サーク的な白人社会の虚飾は、「その外側にいる非白人の犠牲の上に成立している」点である。ローラの生活や、ハリウッド映画が描く「夢」の輝きは、彼らの苦しみを反射したものに過ぎない。

当時のハリウッド映画では排除されるのが当たり前だった、抑圧されたマイノリティの現実。これが、サークの映画のアイロニーの根底にある。

それを、スタジオから求められるメロドラマという形式の中で、毒っけとしてオブラートに表現するのがサークの本来の素晴らしさなのだけど、今作はもろに黒人2人の苦しみを描いている。

いよいよパンツを脱いだというか、白人メロドラマというフィルターを取っ払い、黒人を主人公に置いて問題意識をむき出しにする構成を取っている。これが、私が今作を特異的だと思う理由だ。

(「捜索者」や「グラントリノ」「アイリッシュマン」と同様、強固なスタイルを持つ監督が、自身の世界観や典型的なキャラクターを相対化し、その先を描く。一種の禁じ手的な作品と言えるかも知れない)

▽言葉に縛られる白人、歌い踊る黒人
ローラは女優としてのキャリアを「脚本を変える」ことで切り替える。彼女の評価は演出家の言葉によってひっくり返り、新聞の批評によって確定する。

ローラは住所や電話番号を人物交流のキーとして、キャリアアップしていく。売れていないときの内職も「住所を書く仕事」。

ローラの娘、スージーは「メモを取って考える子」であり、星を見上げて願い事をする。母親と同じ轍を踏んでいる。スティーブと10年ぶりの再会をした時、スージーは「上に」抱き抱えられるが、サラジェーンは遠くから目線を向けるだけ。

サラジェーンは「図書館」で働くと見せかけて、ダンスホールで歌い、踊って金を稼ぐ。ローラと同じように演じているが、彼女の働くバーは階段を降りた地下にある。出自を明かせない彼女は、恋人に住所を教えられない。ローラに逆襲をする場面では、自身の黒人性を逆手に取った「言葉責め」をする。

アニーとサラジェーンが引き裂かれるホテルのシーンは涙無しでは見られない。最後に口にするサラジェーンの「言葉」は、「音」すらも奪われている。あまりに悲痛だ。アニーは「階段に座り込んで」泣く。黒い手すりに閉じ込められたような姿で。

▽脱いだパンツを履く男、サーク
サークは、アメリカ社会を虚構として描く。ただ、彼はその虚しさに耽溺するのではなく、虚構性から逃れられない人間の生を淡々と、シビアに描こうとした監督でもある。

今作も、黒人の悲劇を垂れ流して終わるのではない。ラストシーンはきっちりとサークらしいフレーム内フレームに回帰している。

アニーの葬儀のシーン。彼女は遺言として初めて言葉を使う。この映画は、どんなときも差別無くカラフルな色が画面を彩る作品であるが、黒人も白人も、誰もが最後は虚飾としての葬式を経て、生を終えていく。

ここでもキーになるのが歌だ。歌がアニーを解放していく。サラジェーンは棺桶に駆け寄るが、ローラが当然のように引きはがし、スージーと3人で車の中に収まる。

狭い空間に入った3人と、外で霊柩車を見送る黒人たちの対比はあまりにも残酷だ。海外撮影などで最も「動いていた」はずのローラは車内で手を取り合うしかない一方、ずっと家というフレームに押し込められていたように見えたアニーの世界は、確実に外に広がっていたのだ。

車の3人と霊柩車、その両者をカメラは窓枠越しに捉えることで、フレームが再強調される。人物が上を見上げ続けてきたこの映画は、ラストショット、ここしかないカメラ位置から神の目線が挿入されて終わる。あまりに呆気なくも、美しい幕切れ。何も変わらない現実だけが残される。

▽その他いろいろ(力尽きて箇条書き)
・嘘みたいに鮮烈な水色の使い方。サークの映画には決まって青い目の人が出てくる。アメリカ的虚飾の象徴としてのクリスマスツリー(「天はすべて許し給う」と同じ演出)。

・ローラは「差別していない」という大嘘。サラジェーンが失踪したのに、ローラ親子はスティーブに電話するきっかけができた程度にしか思っていない。電話が始まっても、サラジェーンの話題を出さずにどうでも良い話をしている。ローラはスージーの熱を測って「You're practically normal」と言う。あの世界では白人こそがノーマルなのだ。

・サラジェーンの血筋がバレて恋人に殴られるシーン。ガラスに反射した現実と虚飾の世界の狭間で、背景に映り込む言葉はFOR RENT=借り物と、BAR=障害、禁止。彼女の境遇を象徴している。一方のスージーは後のシーンで、障害なんて無いように、馬で壁を飛び越える。

・終盤、ローラとスージーが(しょうもない理由で)対立し、和解する。ローラは膝枕をしてスージーを慰めるが、顔を全て見せない。クライマックスまで来ても、この母娘はフィルターを介したコミュニケーションしかできていない。

中盤、落ち込むローラをアニーが膝枕をして慰める同型のシーンがある。ここでのアニーはカメラに正対していた。アニーの誠実さに気付かされてまた涙。

・死が迫るアニーの言葉を受けるローラの後ろに無関係な男が立ち尽くす。第三者が映り込むシーンは他にもいくつもあり、ホラー的に見える瞬間も。画面には不穏さや緊張感が保たれている。
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