悲しみは空の彼方にの作品情報・感想・評価

「悲しみは空の彼方に」に投稿された感想・評価

dita

ditaの感想・評価

5.0
※以下長々と書いていますが、ことばにならない思いを無理やりことばにしただけなので要約すると「サークの映画はすばらしい」で済む話です。お時間のない方はそれだけでも覚えて帰っていただければ幸いです。

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愛しているとどれだけ言っても伝わらない愛がある。愛されているとどんなにわかっていても応えられない愛がある。

この映画の愛が一方通行なのは、役割から役割への愛だからだ。母から娘へ、男から女へ。あなたのためだと言われても、お互いにその役を演じている限りどんな愛も届かない。ただひとり、母の役割を捨て他人として振る舞った彼女の愛だけが娘に届き、「ママ…」という娘のほんとうの声は母には届かなかった。

差別などないとどれだけ言っても存在する壁がある。差別されないようどんなに踏ん張っても壊れてしまう壁がある。

わたしが差別したことがある?と声高に言う彼女の家の使用人はみな非白人だった。時代、社会、そうあるべきという刷り込み。自らの肌の色を嫌悪し白人として生きる決意をしても、時代、社会がそれを許さなかった。

マイノリティとして生きた人生の最期にはじめて自らの誇りを示すことを選んだ彼女。死してはじめてわかるその人生は、わたしたちの視線がローラと同じだったと気付かせる。ラストシーン、演技に飲み込まれた人生には虚構だけが残り、演技をしても自らを失わなかった人生には愛だけが残った。

誰もが演技をしながら生きている。わたしだってそうだ。毎夜毎夜自分の演技に疲れ果て、過呼吸を起こし、虚構の社会、虚構の人生に悲鳴を上げながら眠りについている。

サークの映画には映画の夢がつまっていると思っていた。今作を観て、サークは映画の中の「人」に夢と希望を託したのだと思った。虚構の社会に絶望したからこそ、最後の望みとして「人」を魅力的に描き続けたのだと思った。望みは託された。これからどう生きるか、死ぬ時がいちばん幸せだと思える人生を送るかどうかはわたし次第だ。
c5

c5の感想・評価

4.0
◯メロドラマの名手ダグラス・サーク最後の長編。といっても今回はメロドラマではなく、母親の愛情が大きなテーマになっている。

◯離れているからと電話や手紙で精一杯愛情をかける白人の母親、近くにいるからこれでもかと世話を焼き愛情をかける黒人の母親。そのどちらの娘も母の愛情に気づくのには幼く…。「私は白人よ!」という叫びが苦しい。

◯原題は"Imitation of Life"模倣の人生
メロドラマのベールを被せアメリカ社会の虚構性を炙り出したサークの米国最後の作品。白人親娘と黒人親娘の対比で人種差別問題に直球で言及し、まさに別れを告げるのに相応しい。
“愛がなければ人生は虚しい、愛がなければ…それは偽りの人生“と歌い、おそらくイミテーションの宝石が降る冒頭のとおり愛以外を選んだ主人公やもう1人の娘は後悔の道をいく。
女優の上昇志向と階段の下降が示唆的。ロック・ハドソンからロックを抜いたような青年の「仕事と俺どっちが大切なの」感はともかく…
人生はあの時こうすればよかったの連続だが、盛大に数多の参列者に見送られた彼女のお葬式はその生き方全てを反映している。娘の声にできない「ママ」に泣いた。
無意識の差別をも描きシニカルでシビアで教訓的ながらサーク作品は映画をみる幸福と充実感にあふれてるのが不思議。映像の美しさと内容の密度がすごい。
ただ姉妹のように育ったわりに成長した娘2人の関係が希薄な気がしたが、まあワザとなのかな。

イミテーションのOPは、ユダヤ人の妻を持ちドイツからアメリカに亡命して改名し偽りの名をもった監督の人生をもどうしても考える(ダグラス・サークという語感すきだけど)。そしてこの作風まで辿り着いたことを思うと愛しさと苦しさでしんどいまである。
lemmon

lemmonの感想・評価

3.7
複雑に絡む人間ドラマ。

語りたい物語が多く、濃厚。
連続ドラマにできるレベル。


印象的だったのは白人娘スージーのサンドラディーと、黒人と白人の娘サラジェーンのスーザンコーナーの対比。
同じ環境下で育ちながら、悩むべきことが多い少女時代を過ごしたサラジェーンがグッと大人びて、スージーの無邪気さとの違いが面白かった。二人のシーンが少なく残念に思ったが、しょーがない。他にもたくさんあるから😊。

そのスージーも乗り越えるべき山が出てくる後半で大人になっていく。


娘と母の物語。
当然、うまくいかないことも。

とてもスケールが大きく感動的な作品だった。
ゆべし

ゆべしの感想・評価

4.0

恋愛メロドラマよりも黒人の母娘間での人種意識について、親子愛についてのドラマ要素が強い。ド派手な色彩とベタなドラマ展開等、ダグラス・サーク純度は★5つ。
ダグラス・サークの代表作と言えばこれだろう。とにかく一つの物語として完璧である。『天はすべて許し給う』のような独特な異化効果を活かした表現はそこまで見られないものの、彼がメロドラマの巨匠と言われているのも納得できるストーリーの素晴らしさがある。しかし、ただ泣ける話として終わらせるには勿体ない奥深さがあり、原題の『Imitation of Life』の意味を考えて鑑賞するだけでも色々なものが異なってくるはずだ。
Kuuta

Kuutaの感想・評価

4.9
サークの本気が見られる映画。

「俺の思うサーク」と、実質的な遺作である今作の特異性について書きます。くっそ長いです。一部内容は「間奏曲」と重複します。

▽空虚な二項対立
サークは、アメリカ白人社会を舞台にしたメロドラマを得意とする。

「真実の愛vs夢の追求」「自由意思vs運命」といった対立軸の中で、キャラクターは「葛藤」しながら、生きる道を見出していく。

表層的に見れば、テーマはこれだけだ。だけど、サークの映画にはもう一段仕掛けがある。

ドイツ出身で、ユダヤ人を妻に持つサークは、ナチスの迫害から逃れるためにアメリカに亡命し、「典型的なハリウッドのメロドラマ」を撮り続けた。

彼はアメリカの風景やハリウッドのセットを、過剰に美しく、色彩豊かに描き出す。映画の「嘘くささ」の強調として機能している。

彼の映画には、非アメリカ人が見たアメリカ社会の矛盾が詰め込まれている。上昇志向に固執し、金と成功を夢見て華美な衣装に身を包む、白人の右往左往。その愚かしさを、メロドラマの体裁で間接的に描き出す、アイロニカルな作風と言える。

真実の愛か現実の成功か、といった二項対立で悩んでいる登場人物は、結局はアメリカ的な成功のステレオタイプから一歩も逸脱していない。ただメロドラマの枠組み(枠組みはサークのキーワードだ)にとらわれ、現状肯定しつつ、小さな変化に満足している。

▽「演じる女」
今作には白人の母娘と黒人の母娘、2組の主人公が登場する。前者は、典型的なサーク作品の「虚飾だらけの米社会に取り込まれる白人」の運命を辿る。

白人の母、ローラは女優であり「夫から演じることを教わった」。CMのモデルを務め、上っ面の嘘をつき続ける。序盤に嘘で成功するシーンがあるので、その後も常にこいつは演じているのでは?という疑念が付き纏う。

恋人候補の白人のスティーブは写真家であり、フレームに人を収めるのが仕事。彼が撮った広告の写真は、白人のおっさんの太ったおなかが「上へ下へ」動く様子を捉えている。白人は、上と下の移動にしか興味が無い。

階段を降りるローラと、上がる黒人の母アニーのすれ違いで幕を開ける今作は、とにかく階段が何度も出てくる。2階へ駆け上がっては、階下へ降りるアクションを繰り返す。今作中で夢は「Rainbow」と呼ばれ、彼らは上を見上げ続ける。

▽愚かなやり取り
ローラがスティーブにプロポーズされる場面は、サーク的な面白さが詰まっている。

廊下で立つ2人。ローラは否定的な返事をする。会話は切り返されない
→2人の後ろを「おっさん」が通ろうとやってくる
→避けるために2人の立ち位置が入れ替わる
→会話の切り返しが始まる
→結局ローラは「愛してるわ」と言う
→キスしようとするが「ドア」が開く音で中断
→移動して立ち位置が入れ替わる
→キスしようとするが「電話」で中断
→仕事の依頼が入り、ローラは仕事を優先。2人の関係は決裂する。

おっさん、ドア、電話の乱入で2人の関係はクルクルと反転し続けている。彼らはこうした「外的要因」に右往左往しているだけで、どこにも自由意思はないのに、本人は自信満々に話している。この滑稽さがサークの描くアイロニーである。

ローラはこの場面のあと、影のかかった曖昧な明るさの中、「私は上り続けるの」と言いながら階段を降りる。結局、売れっ子脚本家とキスするとき、彼女は窓枠のフレームに閉じ込められる。

▽白人社会の外にあるもの
今作がサークにとって「特異的」なのは、こうしたバカな白人のメロドラマは前半で終わり、後半からはアニーと娘のサラジェーンの物語にシフトしていく点にある。

アニーはローラの生きる虚飾の世界の片隅で、良くも悪くも黒人らしく、静かに、周囲に適応しながら生きている(彼女も小さな嘘をつき続けているが、その目的は利他的である)。

サラジェーンは、黒人の血を受け継いでいるが、白人の見た目をしている非常に複雑なキャラクターだ。

公民権運動以前の50年代のアメリカにおいて、彼女は生まれながらにして「白人を演じる」ことを社会的に求められている。「女優」ローラの映し鏡として、悔しさや嫉妬心を抱く彼女は、成功のためではなく、生きるために演じている。

強調したいのが、「サーク的な白人社会の虚飾は、その外側にいる非白人の犠牲の上に成立している」点である。ローラの生活や、ハリウッド映画が描く「夢」の輝きは、彼らの苦しみを反射したものに過ぎない。

当時のハリウッド映画では排除されるのが当たり前だった、抑圧されたマイノリティの現実。これが、サークの映画のアイロニーの根底にある。

それを、スタジオから求められるメロドラマの中で、毒っけとしてオブラートに表現するのがサークの本来の素晴らしさなのだけど、今作はもろに黒人2人の苦しみを描いている。

いよいよパンツを脱いだというか、白人メロドラマというフィルターを取っ払い、黒人を主人公に置いて問題意識をむき出しにする構成を取っている。これが、私が今作を特異的だと思う理由だ。

(「捜索者」や「グラントリノ」「アイリッシュマン」と同様、強固なスタイルを持つ巨匠が、自身の世界観や典型的なキャラクターを相対化し、その先を描く。一種の禁じ手的な作品と言えるかも知れない)

▽言葉に縛られる白人、歌い踊る黒人
ローラは女優としてのキャリアを「脚本を変える」ことで切り替える。彼女の評価は演出家の言葉によってひっくり返り、新聞の批評によって確定する。

ローラは住所や電話番号を人物交流のキーとして、キャリアアップしていく。売れていないときの内職も「住所を書く仕事」。

ローラの娘、スージーは「メモを取って考える子」であり、星を見上げて願い事をする。母親と同じ轍を踏んでいる。スティーブと10年ぶりの再会をした時、スージーは「上に」抱き抱えられるが、サラジェーンは遠くから目線を向けるだけ。

サラジェーンは「図書館」で働くと見せかけて、ダンスホールで歌い、踊って金を稼ぐ。ローラと同じように演じているが、彼女の働くバーは階段を降りた地下にある。出自を明かせない彼女は、恋人に住所を教えられない。ローラに逆襲をする場面では、自身の黒人性を逆手に取った「言葉責め」をする。

アニーとサラジェーンが引き裂かれるホテルのシーンは涙無しでは見られない。最後に口にするサラジェーンの言葉は、音すらも奪われている。あまりに悲痛だ。アニーは階段に座り込み、黒い手すりの間に挟まれて泣く。

▽脱いだパンツを履く男、サーク
サークは、アメリカ社会を虚構として描く。ただ、彼はその虚しさに耽溺するのではなく、虚構性から逃れられない人間の生を淡々と、シビアに描こうとした監督でもある。

今作も、黒人の悲劇を垂れ流して終わるのではない。ラストシーンはきっちりとサークらしい「フレーム内フレーム」に回帰している。

誰もが心を奪われるであろう、アニーの葬儀のシーン。彼女は遺言として初めて「言葉」を使う。この映画は、どんなときも差別無くカラフルな色が画面を彩る作品であるが、黒人も白人も、誰もが最後は虚飾としての葬式を経て、生を終えていく。

当然ここでもキーになるのが歌だ。歌がアニーを解放していく。サラジェーンは棺桶に駆け寄るが、ローラが当然のように引きはがし、スージーと3人で車の中に収まる。

狭い空間に入った3人と、外で霊柩車を見送る黒人たちの対比はあまりにも残酷だ。海外撮影などで最も「動いていた」はずのローラは車内で手を取り合うしかない一方、ずっと家というフレームに押し込められていたように見えたアニーの世界は、確実に外に広がっていたのだ。

車の3人と霊柩車、その両者をカメラは「窓枠越し」に捉えることで、フレームが再強調される。人物が上を見上げ続けてきたこの映画は、ラストショット、ここしかないカメラ位置から神の目線が挿入されて終わる。あまりに呆気なくも、美しい幕切れ。何も変わらない現実だけが残される。

▽その他いろいろ(力尽きて箇条書き)
・嘘みたいに鮮烈な水色の使い方。サークの映画には決まって青い目の人が出てくる。アメリカ的虚飾の象徴としてのクリスマスツリー(「天はすべて許し給う」と同じ演出)。

・ローラは「差別していない」という大嘘。サラジェーンが失踪したのに、ローラ親子はスティーブに電話するきっかけができた程度にしか思っていない。電話が始まっても、サラジェーンの話題を出さずにどうでも良い話をしている。登場人物に久々に怒りを覚えた。ローラはスージーの熱を測って「You're practically normal」と言う。あの世界では白人こそがノーマルなのだ。

・サラジェーンの血筋がバレて恋人に殴られるシーン。ガラスに反射した現実と虚飾の世界の狭間で、背景に映り込む言葉はFOR RENT=借り物と、BAR=障害、禁止。彼女の境遇を象徴している。一方のスージーは後のシーンで、障害なんて無いように、馬で壁を飛び越える。

・終盤、ローラとスージーが(しょうもない理由で)対立し、和解する。ローラは膝枕をしてスージーを慰めるが、顔を全て見せない。クライマックスまで来ても、この母娘はフィルターを介したコミュニケーションしかできていない。

中盤、落ち込むローラをアニーが膝枕をして慰める同型のシーンがある。ここでのアニーはカメラに正対していた。アニーの誠実さに気付かされてまた涙。

・死が迫るアニーの言葉を受けるローラの後ろに無関係な男が立ち尽くす。第三者が映り込むシーンは他にもいくつもあり、ホラー的に見える瞬間も。画面には不穏さや緊張感が保たれている。
たかや

たかやの感想・評価

4.0
人間臭さが凄い。
そして黒人差別の表現で落ち込む話。

印象的な程に鏡が登場するが、どのシーンでもあきらかに自分が見れていないのがよい。

そしてなんといってもファニタ・ムーアとスーザン・コーナーの別れの切り返しと声にならぬ声の強さ。強度。
ダグラス・サーク、本質的には厳しい人なんだと思う。母娘が心を通わせ、いつまでも幸せに暮らすことなどできない。当時のアメリカで暮らすこと、心を通じ合わせることがどれだけ途方もないことかを描く。基本的に人生において人がする選択には、後悔が付き纏うこと。過酷だが全て現実である。だからこそ終盤30分のあまりにも過酷で残酷な希望に打ちのめされる。これが59年の映画だという事実もすごい。サラジェーンの声に出さない別れの言葉に号泣。キスシーンが一つ残らず完璧。無敵のショット。Blu-ray死ぬほど画質いい。
H

Hの感想・評価

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恋愛よりよりのメロドラマかなと思ったけど、しっかり母娘と人種差別について。娘のこともっと放っておいてあげたらいいのにと思うのは私がまだ小娘なのか‥
(最近知人の結婚が続いて子供によって見てしまうの、なんだかって感じ)

・I killed my motherの台詞
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