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オープニング・ナイトのmochiのレビュー・感想・評価

オープニング・ナイト(1978年製作の映画)
4.1
いやー素晴らしい。カサヴェテスは「グロリア」に続く二作目の鑑賞だが、やはりこの人はすごい監督だと思った。全体としてカメラワークがかなり独特で、より方や障害物の置き方が面白い。俳優も女優もみんなかっこいいし、異常なセンスの良さを感じる。
話としては、女優という檻、老いという問題といかに向き合っていくか、という話。これは熱狂的なファンが幽霊として現れてきた話として解釈されるべきではない。「17歳の頃は何でもできた」という台詞の通り、歳をとるうちに色々なことに人は縛られる。ましてや女優は台本に従った、美しい演技という檻に閉じ込められる。マートルは明らかに何かを感じていた。タバコと酒への依存はこの象徴である。しかし、彼女が感じている違和感、求めている欲望を純粋に表現する人物にマートルは会ってしまった。さらに、その人物が破壊されるところも見てしまった。これが本当に求めているものが抑圧されているという彼女の現状とひどく合致することになる。現れてくるナンシーは本当にいるのではなく、マートルが現像している欲求の表出である。しかしながら、欲求と向き合うことは自己の暗い部分と正面から対峙しなければならないことを意味する。老いや恋愛の不足、若かりし日に対する後悔。彼女がナンシーを完全にコントロールしていると思いたいのは、自分の欲求を素直に認めたくないからである。彼女は欲求が自己を取り込んでいくことを自覚してはいるが、それを自覚することは彼女が最も否定する老いを認めることになってしまうのである。
舞台での異変はこの葛藤の表出である。舞台は彼女の欲求を自覚させ、檻として機能する、という意味では彼女の敵である。しかしながら、逆に言えば、マートルにとって自己と向き合いそれを克服することのできる唯一の場である。ラストシーンの即興演技は、マートルなりの一つの答えなのだろう。もちろんこれで乗り越えられているかどうかはわからないが。レオもこのことを理解していた。だからこそ舞台を中止するのではなく、彼女の戦いを見守ったのである。レオは敵ではなく、ある種最大の味方でもある。泥酔した彼女への手助けを叱責したのも、苦しみながらも克服しようとするマートルの状態を理解しているからである。サラとデイビットが劇場から出た時、彼だけは残っていたことを思い出してほしい。
正直中だるみもあって退屈なところもあったけど、すごい映画だと思う。カサヴェテスくそイケメンだな。
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