riyou

8 1/2のriyouのネタバレレビュー・内容・結末

8 1/2(1963年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

”したがって、こういえるだろうと思うんです。わたし自身の歴史的位置というのは、前衛の中の後衛だ、と。前衛であるということは、何が死んだのかを知っているということです。後衛であるということは、死んだものをなお愛しているということです。”
ロラン=バルト


この映画は映画監督グイドが主人公だ。映画作りに苦しむグイドと、彼の周囲の俳優やディレクター等の人々との話である。映画の話だから必然自己言及的になる。

「前衛映画としての欠点のみを持っている」
「独りよがりは困る。観客にわかる映画でないと」
などとグイドは評論家らに非難される。
この映画自身、空想や過去が入り混じりストーリー性がない。いわゆる前衛映画である。

「自分のうちで死んだものを消し去ろうとするが、できない」グイドはこういったことを言う。グイドは良い前衛映画を作ろうとして苦しんでいるのだ。
同時に、妻や愛人との関係にも苦しんでいる。ある女優が「私の役はないのね」とグイドに言う。あなたが主役であるあなたの人生という映画に、私が演じられる役はないのね。という意味を含んでいる。人生とは映画なのだ。

先ほど、グイドが前衛映画を作ろうとしていると述べたが、正確には「前衛の中の前衛」の映画を作ろうとしていた。何が死んだのかを知っていて、それを消し去ろうとしているからだ。しかしそれは上手くいかず、グイドの自殺を示唆する描写が入る。自分すら殺してしまったのだ。人生の死だ。すなわち映画の死だ。

その後、グイドは「人生は祭りだ。ともにすごそう」と言い踊り出す。登場人物皆が手を取り合って踊る。映画が祭りとなる。死んだ人生が、死んだ映画が、祭りとなり踊る。グイドは「前衛の中の後衛」となったのだ。死んだものを知っていてなお愛しているのだ。

この映画は人生=映画の死を描き、なおそれを愛するという、映画愛と人間愛の詰まった素晴らしい映画である。
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