ダイアー教授

ベニスに死すのダイアー教授のレビュー・感想・評価

ベニスに死す(1971年製作の映画)
5.0
題:映画表現の極み

製作:1971年、イタリア映画、ワーナー配給
監督:ルキノ・ビスコンティ
原作:トーマス・マンの同名小説

何を映像で、何を音楽で、何を台詞で、何を演技で、何を役者で表現するか?
それが映画の本質ですが、本作は映画表現の極限にあると思います。

『ベニスに死す』の素晴らしさを言葉にしようとすると、それは言葉を超えたところにあることに気づき、言葉の限界と無力さを思い知ります。
グダグダ言っても埒があかないので、3つにまとめて申し上げます。

1.音楽
音楽が素晴らしい。
テーマ曲はマーラー交響曲第5番aka.アダジェート、オープニングで流れる曲。
肝心なシーンで流れ、この曲が流れる場面は盛り上がるシーンで、重要な意味があります。
※『仁義なき戦い』や『デルタフォース』のテーマみたいなものです。

原作小説の主人公グスタフは作家。
映画では音楽家に設定変更されています。
小説は文章、映画は映像と音楽が表現の手段であるから設定を変更したのでしょう。

2.芸術とは美とは
本作は「芸術とは何なのか?美とは何なのか?」という問いを観た者に投げかけます。
主人公のグスタフは
「芸術と美はProduct of Labor/努力のたまもの。真理・美徳・人間の尊厳/Wisdom, Truth, Human Dignityの追求なんだ!」
と言います。
グスタフの相棒アルフレッドは
「そんなもん追求しても意味がない!美は感覚的なもの。芸術と美は努力して創り出すものではなくて、自然と生まれるものなんだ!」だと反論します。

アルフレッドが言っていることが真理です。
しかし、グスタフは理解できません。

なぜなら彼は“凡人”だからです。グスタフの根底(mainstream)にあるのは平凡さ(mediocrity)なのです。
※奇しくも作曲家を扱った『アマデウス』でサリエリが「私は凡人(mediocrity)の代表なのだよ」と自嘲するシーンと言葉が一致します。

グスタフは芸術や美を勘違いしてるイタいおっさんですが、
ベニスでタッジオに逢って「芸術が何か、真の美とは何か」を知ります。
死を目前に、ようやくに…

3.映画の役目と(私見)
アルフレッドは「美とは若さである!歳をとると純粋さを失う…つまり、老人ほど不純な存在はない」と言い
「グスタフ、君は醜く、不純だ!お前は自分の曲と一緒に、墓場に行け」
と吐き捨てます。

若者は純粋で美しく、老人は不純で醜いのです。
本作で云うと、タッジオは美しく純粋、グスタフは醜く不純です。

しかしながら、タッジオも一日、一秒…刻一刻と歳をとっています。つまり、不純になっています。
砂時計の砂が落ちるように…!
タッジオはビーチで“砂”にまみれではしゃぎますが、“砂”は時間のメタファー、砂にまみれるのは“不純”のメタファーです。

美を、若さを、純粋さを永遠にとどめておけないのでしょうか?
砂時計の“砂”が落ちるのを止めることはできないのでしょうか?

(私見)
私はそれが芸術の役目だと思います。
絵画、彫刻、写真、あるいは映画は時間を止めることができます。
筆や絵具、槌と鑿あるいはフィルムは美を永遠に保存することができる装置なのです。
ラストのシーンで、右端にあるカメラが意味するのではないでしょうか?
映画は、フィルムは時間を止める、つまり美を永遠にすることができるのです。

音楽もそうです!
作曲家のグスタフは、死臭漂うベニスで、いまわの際にそれをようやく知ったのではないかと思います。
タッジオに逢って書いた曲を聴いてみたいものです。