青山祐介

マザー、サンの青山祐介のレビュー・感想・評価

マザー、サン(1997年製作の映画)
4.2
『(ソクーロフの描く)この世界は … 愛情の果て、極致であり、その向こうに本物の何か
が秘められている。…ある意味でこの親子は、あたかも一体化した存在となり、永遠の自
然という奇妙で美しい世界に没頭する。人間がそもそもまだ到達していないので台無しに
せずにすんでいる世界へ。あるいはとうの昔に去って二度と戻ることのない世界へと…。』
アレクサンドル・ソクーロフ≪イントロダクション≫

アレクサンドル・ソクーロフ「マザー、サン (Мать И сьɪн)」ロシア/ドイツ映画
1997年

三月に母が亡くなりました。突然の死でした。帰宅したときのただならぬ雰囲気、冷たく
なった母を見つけたその衝撃はいまでも心から離れません。そのとき、≪死≫だけではな
く≪時≫の闇が私の上に覆い被さってくるような、いままでにない経験をしました。妻の
死は大きな悲しみとして受け入れることができましたが、母の死は少し違ったものでした。
≪死≫をはっきりと意識しました。それだけになおさら、≪母≫という存在の意味を、血
によってつながる親子の情念とか、感傷なしに見ることができたのです。またそのことが
ソクーロフの近親三部作「マザー、サン」を自分の眼差によって、あるがままに見つめな
おすことの視点をあたえてくれました。そこには、妻と見た風景も、鳥の声も、風の音も、
虫の羽音もありました。
映画「マザー、サン」の静謐な≪時≫のなかで物語られる母と息子の極度の親密さはどこ
からくるのでしょうかー母と息子の関係にはもともと近親相姦的な部分が含まれているの
でしょうが、≪時≫は、あるときは≪愛≫と呼ばれ、またあるときに≪死≫と名づけら
れます。ソクーロフがいう母と子の「愛情の極致」の、その向こうに秘められている「本
物の何か」とは何でしょうか? 愛なのか、時のなのか、死なのか、それとも永遠なのか?
ソクーロフは19世紀ドイツ、ロマン主義の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの
「海辺の修道士 The Monk by the Sea」を映画の画面のモチーフにしていますが、フリー
ドリヒのピクチャレスクといわれる風景画のなかに、おそらく≪死≫をよみとったからで
はないでしょうか。彼の母ソフィア・ドロテアは7歳の時に、また翌年には姉を、13歳の
時には弟を、17歳の時には2番目の姉を亡くしています。フリードリヒの描く絵は「絵の
ように美しい」風景ではなく、死の風景 ― そのなかに『精神(こころ)の声』が聞こえ
てくる風景画のように思えてなりません。≪いままでの私の映画のなかでもっとも美し≫
という「マザー、サン」の家具、ショット、風景に≪死≫と≪時≫を感じるからでしょう。
≪時≫は容赦なく流れます。いいえ、≪時≫はつねに静止しています。「ふつう時間は流れ
ると思われていますが、私には時間は一定のところでとどまって不動であると思える」と
1996年のインタヴューで語っていますが、≪愛≫や≪死≫や≪時≫というものは永遠の中
に静止します。「私は、もちろん、死について認識していない。私は生きて死んではいない
からだ (1994年のインタヴュー) 」と答えていたソクーロフとは、あきらかにちがいます。
ソクーロフは新しい境地に入ったのだと思います。
『われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなけれ
ばならない… (それには) 作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない…ものを
見ることができるように、内容を切りつめることである(死を見つめるために)』
スーザン・ソンタグ
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