ベイビー

灼熱の魂のベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

灼熱の魂(2010年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます


今回も妄想を含めた勝手な考察。


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今作はレバノン生まれでカナダ・ケベック州に移住した劇作家ワジディ・ムアワッドの戯曲『焼け焦げるたましい(原題:Incendies、火事)』(2003年)の映画化。ドゥニ・ヴィルヌーヴが脚色と監督を務めました(Wikipediaより)。

ある日、厄介者だった母のナワルが急死し、残された双子の姉弟に遺言が言い渡されます。

その遺言の中には、今まで一度も知らされていなかった父と兄の存在が記されており、姉のジャンヌには「父」を、弟のシモンには「兄」を各々探すよう文面で指示されています。そして二人を見つけ出したら手紙を渡すようにとも書かれており、ジャンヌはそれを叶える為、母と自分たちのルーツである、中東の国へと向かいます。

そこから交錯する現在と過去。現在でジャンヌが父を探すに連れ、過去に起きた内戦という悲惨な状況に巻き込まれながらも、壮絶に生き続けた母ナワルの人生が痛々しいくらいに浮き彫りになっていきます。

難民の男を愛し、その男の子を孕ってしまった結果、ナワルの人生は大きく狂わされました。愛した男は殺され、ナワルは村八分にあい、我が子とは生き別れになってしまいます。

しかし、どんなに辛い人生を歩もうとも、ナワルはその苦しみから逃げようとせず、その愛を一度でも悔やむことはありませんでした。とても強い人です。

話は少し変わりますが、今作の前年にドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が撮られた「静かなる叫び」という作品があります。その中でドゥニ監督は無差別銃乱射という事件の不条理と、後戻りができない不可逆のやるせ無さを、熱力学第二法則の"エントロピーの理論"を用いて上手くまとめ上げていました。

別にエントロピーを意識しなくても物語の本題から外れてしまうことはないので、作品自体は充分楽しめるのですが、しかしエントロピーの理論を物語に馴染ませることができると、物語の本質がクッキリと浮かび上がり、より強い監督からのメッセージが伝わって来ます。それにより、作品への感動の度合いが大きく変わってくるのです。

それで言えば、今作は"純粋数学"に上手く耳を傾けることで、物語の伝わり方が大きく変わってくると思います。特にeiπ+1=0 で表される"オイラーの等式"がそれです。このオイラーの等式は"世界一美しい等式"だと言われています。

今作の中で、姉のジャンヌは大学の数学教授であるニヴの助手をしており、そのニヴがジャンヌの父親を探す手助けとして、中東にあるダレシュ大学のサイード・アダールという教授を紹介してくれました。

結果として、サイードからは何の情報も得られなかったのですが、サイードはジャンヌに「無神論を唱えるディドロに、オイラーはこう言った『閣下、"eiπ+1=0"、故に神は存在する』」。という意味不明な言葉だけを残しました。

仮に、ナワルが託した「父と兄を探せ」という遺言が、ジャンヌとシモンに遺した何らかの"答え"を意味するならば、それを探すことで分かり始めるナワルが辿った人生は、その"答え"を紐解くための数式と言えます。

直感的にそう思ったものの、そういう目線でこの物語を観続けても、ナワルが辿った人生はまるで神にも見捨てられたような過酷なものでした。過去に見るナワルの壮絶な人生に、オイラーの等式のような美しさは感じられません。それどころか、ナワルの人生は、未だ答えを立証できない"純粋数学"の世界に見られる、深い"沼"のように思えます。

話は少し前後しますが、皮肉にもジャンヌはニヴの助手として、大学で「コラッツの問題」を講義していました。

コラッツの問題とは「任意の正の整数 n をとり、n にある一定の操作を繰り返すとどうなるか?」というもの。それは、どんな初期値から始めても、有限回の操作のうちに必ず "1"に到達する、という主張がコラッツの予想です(Wikipediaより)。

小難しい定義はさておき、重要なのは「どんな初期値から始めても、必ず"1"に到達する」という予想。今作に置き換えれば、ジャンヌとシモンが探し出した答えが、1+1=2でなく、1+1=1、という事実。その答えが導き出されたのは、必然であり、運命だったという事です。奇しくもジャンヌはこの事実を自分の講義の中で予想していたことになります。

それはあまりにも残酷な結末です。まるで悪魔が運命を嘲笑い、ナワルに過酷な罰を与えているようです。

この次々と訪れる胸を打ちひしがれるような現実に、どうしようもないくらいにナワルが辿る人生の不条理を感じるのですが、それでもナワルは自分の人生を悲しもうとはせず、それどころか最後に"愛"を以ってこの皮肉な運命を美しい形へと変えてしまいます。

それこそが、eiπ+1=0。オイラーの等式です。

この物語の最後で"1"という数学が導かれた時、全てを知ったナワルにはある答えが浮かび上がります。ナワルが約40年の月日を重ねて息子を探し彷徨い続け、そして最後に答えが"1"になり、その事実を受け入れることで、ナワルの人生は"0"という形に等価されたのです…

その"0"は何も無いことを示す"ゼロ"ではありません。全てが数奇な運命のもとで繋がった"◯"という"サークル"です。そう捉えることによって、この悲劇にも見える物語が、オイラーの等式に則り、美しい結末へと移り変わります。

この波乱に満ちたナワルの人生。地獄の底に手が届きそうになりながらも、ただ一つだけナワルが信じ続け、見失わなかったものは"愛"でした。ナワルの人生、そしてその家族は、最後にナワルの"愛"で繋がり、一つの"サークル"として完成されたのです。

ナワルはこの皮肉めいた自分の運命を悲劇として捉えたのではなく、運命を赦し、最後まで愛を信じ、負の連鎖を断ち切り、美しい人生として終わらせたのです。

この人生は奇跡を導き出した公式。

こうしてナワルは"愛"という美しい公式を使って「神は存在する」ことを子供たちに証明して見せたかったのだと思います。
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