ベイビー

PASSIONのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

PASSION(2008年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

「PASSION」
1. 激しい感情。情熱。
2. キリストの受難。また、受難曲。

今作は2008年の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作として作られた作品。言わば学生が作り上げた作品です。そんな事を微塵も感じさせない完成度。その後サン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスに出品され話題を呼んだとのことです。

今話題の濱口竜介監督。彼の初期の代表作である今作ではまだ濱口式メソッドは見られなかったものの、巧みな脚本の文法力と丁寧な映像表現に至っては、荒削りながらもこの頃からその才能がしっかりと見受けられました。

個人的な感想を述べると、この作品の内容は濱口竜介監督の商業映画デビュー作「寝ても覚めても」に似ていると感じました。というよりも、今作でしっかりと基礎ができたので、これを下敷きとして「寝ても覚めても」が完成されたのだと勝手に想像してしまいます。





以下、勝手な考察(ネタバレ注意)。



PASSION

この意味を調べると

1. 激しい感情。情熱。
2. キリストの受難。

とあります。

この作品を大雑把に分類すれば恋愛映画なので、1. の"情熱"の方に意味を当てはめることはそれほど難しくないのですが、2. の"キリストの受難"という意味にこの作品を重ねると、物語に対して一層深みが感じられます。

パッションの語源はラテン語の “Passio” です。この言葉はインド・ヨーロッパ語の “Pati/Patior” が元となっています。この言葉は「許す、苦しむ、黙認する」という意味をもち、キリスト教と関連しています。
(引用元:https://gimon-sukkiri.jp/paasion/)


1. 許す(赦す)

この作品の中で頻繁に"赦す"という言葉が使われるシーンがありました。それは果歩が行った「暴力」の授業です。

一見あの授業のシーンは本編の内容とも繋がりにくく、ましてや「寝ても覚めても」との関連性はないように思われますが、今作や「寝ても覚めても」、そして「ドライブ・マイ・カー」にも見られる物語の共通するテーマは"赦し"です。人を赦し、自分を赦し、過去を赦し、そこから新しい未来を作り出して行く。そんなメッセージが濱口監督作品の中には隠れていると思うのです。

古代、"赦し"は"神"にしか許されなかった行為なのですが、それを地上の人々にまでできるよう広めたのはキリストでした。

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さな者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸(か)けられて、海に投げ込まれる方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章1-5節)

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18章35節)

また、よく耳にする「主の祈り」の一節も「わたしせたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」とあります。

果歩の授業で執拗に繰り返される"赦し"という言葉はのちにラストの伏線へと繋がるのですが、同時にこの授業はキリストの存在を匂わせているように思えました。

「世界は『私』と『他人』で成り立っています。私は『他人』の感情はコントロールできませんが、『私』の感情はコントロールできます。負の連鎖を断ち切るのは暴力で他人を従わすのではなく、例え他人から暴力を受けたとしても、『私』が自分の感情をコントロールして、他人を赦し続けるしかないのです」

そのような内容の話を生徒たちの前で執拗に投げかける果歩。迷える子羊たちに説く"赦し"の説法は、残念ながらあの教室では虚しく掻き消されるだけでした。

そういえば、タイトルクレジット直前に誰かが車のドアガラスを叩いていました。結局そのことについて作中では一切触れられていさませんが、あれはそのまま「1. 激しい感情」と捉えるべきなのか、それとも果歩が言う「私と他人との隔たり」を意味しているのか、ずっと考えているのですが、今となってもその解釈が上手く纏まりません。


2. 苦しみと沈黙

この作品で見られる"苦しみ"とは、登場人物たちの心の内にある吐き出せない本音だと感じました。"私"にしか分からない"私"の苦しみ。ただ耐え忍ぶ沈黙の痛み…

「受難」という言葉を調べてみると、

「神学用語で、イエス・キリストの裁判と処刑における、精神的および肉体的な苦痛のための言葉」(Wikipediaより)

とあります。これはイエス・キリストの磔刑に係る一連の出来事を意味し、「殉教」といった意味も含まれています。

今作の終盤で果歩と健一郎が超ロングテイクで会話するシーンがありました。

巨大な煙突から噴き出される大量の煙。どこか異邦とも思える異様な風景の中、果歩は自分の身近に起きた"奇跡"の話をします。それは祖父が一度死んで生き返ったという話。その話はまるでキリスト復活の逸話を意図したエピソードのように聞こえます。

そして、その後日談として母の話が出てきました。母は一度死んで生き返ったものの、一度も意識を取り戻さない祖父を看るために、教師を辞め、半ば"殉教"とも言える形で最後まで付き添います。それから祖父が他界して半年後、母は父と離婚をします。

それは母の心の痛みを語るには充分なエピソードだと思います。祖父が他界して半年後、母が沈黙し続けた心の跡には、安堵感と空虚感、そして自分の人生を取り戻したい、自分を取り戻したいという気持ちがあったのではないでしょうか。その内に秘めた苦しみを慮ると母が抱き続けた沈黙の痛みも充分伝わってきます。

内に秘めた苦しみと言えば、健一郎の果歩への想いも同じと言えるでしょう。そして智也の背徳な想いもそれと同じで、貴子の恋愛も奔放そうに振る舞っている感があります。

内に秘めた片想い

この群像劇の恋愛のベクトルは、異様な形に絡み合って行きます。


3. 情熱

今作を含めた濱口監督作品の登場人物たちは皆不完全で、つまずきながら人生を歩んでいます。それに付随して彼らの"愛"はどれも不完全です。本当の愛を模索しながらも、人は自分に迷い、過ちを犯し、人の心を傷つけます。

「人を本気で愛したことはあるのか?」

とても身につまされる問いです。今作でも出てきたセリフですが、誰もこの言葉に正しく頷いてはいませんでした。

本当の愛とはなんなのか。それを示す手立てはあるものなのか。確かな愛を見定められるほど、人は自分を信じていないのかもしれません。

思えば、この作品の登場人物たちに限らず、人はなんらかの"形"に縛られています。それは"常識"と言ってもいいでしょう。

"愛"は自由であっていいはずなのに、多くの人は常識に囚われたり、打算的になって"愛"に価値をつけてしまいます。"本気"と言えるほどの立派な愛を導くには、"常識"を見るのではなく、正しく"自分"を見つめることが必要なのではないでしょうか。毅と智也と貴子の三人で行われた本音を話すゲームはそのいい例だと思います。

毅は愛に打算的で都合良く体を許し合う健一郎や智也や貴子をよく思っていません。よくは思わないものの毅は毅でモヤモヤし続ける自分の気持ちに違和感を感じているようです。

その状況下で本音を話すゲームが始まります。一人が真実を語り、真実を語った者が好きな質問を二人に投げかけるというルールです。

最初のうち三人は、本音を語るものの自分の内にある真実を喋っていません。ぎこちなくゲームは進むのですが、語られるのは当たり障りのない本音。しかし、ルールが崩れ三人の感情が剥き出しになったとき、"本能"という真実が露わになり、言葉と行動がチグハグになりながらも本性のまま衝動に駆られて行きます。

激しい感情
抑えられない衝動

果歩は暴力の授業の中で「自分の感情は自分でコントロールできる」と言っていました。しかし、人の本性、"本物"の感情とは、自分ではコントロールできなところにあるのではないでしょうか。

形に囚われ、ルールに縛られ、常識のもとに身を潜めていては、感情的にもならない、情熱的にもなれない…

たぶん、果歩の母が智也に言った「"真"(誠)がない」とは、このような常識に囚われない"情熱"が誠意としてあなたからは見えてこないのだと、智也に言いたかったのかもしれません。

智也が見せた最後の衝動。きっとそれは智也の本性が瞬時に囁いたのでしょう。そして果歩は泣き崩れてすがる智也を沈黙を以って赦します…


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僕が今作を「寝ても覚めても」と似ている、というもう一つの根拠として、その"衝動"を丁寧に描かれているからです。

「真の愛は理屈ではない、他人には理解できない『私』だけのもの」

そう濱口監督が仰っているような気がするのです。

作中で毅は犬と猫の違いを語りました。

「犬は主従関係に重点を置くためその家の主人になつこうとするが、猫は意外と面倒見が良くて、その家の一番弱い人間に近づき終始励ますように側に居る。そして一途な一面もあり、他の人に移ろいだりしない」と。

それで言うと果歩は間違いなく"猫"でした。自分が傷つけられたにも関わらず、身勝手で弱り切った智也の衝動を受け入れ、そして赦すのですから。

この一度離れた人を赦して受け入れる形のラストも何処となく「寝ても覚めても」に似ています。

しかし、この赦しがこの先、果歩にとっての"受難"にならなければいいのですが…
ベイビー

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