PASSIONの作品情報・感想・評価

『PASSION』に投稿された感想・評価

AKIRA

AKIRAの感想・評価

4.2
やっと観れたーーーー(๑>◡<๑)
相変わらずこの監督の作品のセリフひとつひとつがいちいちこちらを翻弄させるよな〰︎
★★★liked it
『PASSION』 濱口竜介監督
Passion

岡本竜汰 as 智也
&河井青葉 as 果歩

みんな、片想い
愛する情熱&愛されない苦しみ

Trailer
https://youtu.be/bkyJyO7-Ipo
impre

impreの感想・評価

-
初めて見たときは登場人物全員が狂人にしか見えなくて、やってることにも言ってることにも乗れなかった(というか頭に入ってこなかった)けど、今ある程度こういう映画に対する耐性がついてから見るとめちゃくちゃ面白く見れた。
主人公の智也が人としての誠が無さすぎていいんだけど、最後まで人としての誠が無さすぎて、それだけは今でも乗れない。
とぅん

とぅんの感想・評価

3.7

このレビューはネタバレを含みます

男女5人の人間模様を描く濱口監督作。
これで卒業制作というのには驚愕する他ないのだけど、やっぱり早い段階から面白い作品を作っていたんだなぁと思い知らされた。

最近観た濱口監督作の中では、ハッピーアワーも繋がりのあった人々の関係が崩れていくのを描いていたけど、こちらはあまり色んな場面に散らさずに2時間にまとまっている分引き込まれたし、一番好きかもしれない。

5人が入れ替わっていく会話劇なのだけど、その中に差し込まれる暴力について考える教師と生徒のシーンや、男女3人による本音ゲームのシーンがとても印象的で、
とりわけ後者の登場人物のはらわたがどんどん露わになっていって、思わぬ着地を見せるところは、この作品のハイライトだと思える強烈な出来だった。

そういえば、監督の直近作の「偶然と想像」では、劇中のトモヤが揺れ動いていた2人の女性を演じていたお二方が出ていたのだなと、他の方のレビューを見て気付いた。
これを踏まえて、また「偶然と想像」観てみたいな。
男女5人の物語。
会話シーンで、言葉に対するリアクションや表情だけでなんとなくそれぞれが相手に抱く感情が見えてきた。

本音しか言わないゲームで思わず笑った

智也が本能と向き合って真剣に考えてるなって思っちゃった。だからラストシーンは好きだった。
健一郎さんがキモいなって思ってしまった。
卒業制作、、

群像劇で、男女のすれ違いを描いているが、濱口竜介監督らしい生々しさに満ちている。ただ、今作も引き込まれました。夜明けがまぁ美しい。人としてダメな部分、愚かな部分をほったらかしにせず、何なら徹底的に掘り下げる。ただ、決して更生する訳ではないのもリアル。何が良いのか分かっているのかと言われれば自分は分かっていないんだろうけど。

暴力についての授業のどこか破綻とは言わないまでも、違和感がある部分を生徒全員に容赦なく静かにつつかれたシーンにはゾッとした。

この10年以上後に、女性二人が「偶然と想像」で共演するのも良いなぁと。あと一人は変態的だったけど笑

見てからもう3か月以上たったけど、改めて特集上映「言葉と乗り物」に感謝。結構な数の作品が上映されていたけど、この作品と「ハッピーアワー」しか見れなかったのが心残り
ネット

ネットの感想・評価

3.5
新郎が気持ち悪すぎる。意図的に気持ち悪く造形してると思うので映画としてはうまくいってるわけだけど、ずっとイライラしながら見てた。完全にハマリューの思惑通りだなー。
『エクス・マキナ』を見たとき、映画というメディアは恋愛を描くのに最適なメディアだと直感した。男と女が同一フレームに収まれば恋愛関係に見えてしまう。これはおそらく映画が黎明期から築き上げてきた文法の強固さゆえに非常に逃れづらいものだと思う。ただこれって、部屋に男女が閉じ込められればセックスするだろみたいな、自分がすごく嫌いな考え方にも通底する安易さだとも思う。
『偶然と想像』を見てすぐ思ったのは、ハマリューへのノれなさは、彼の男女観へのノれなさだということだったが、それと全く同じ感想が浮かぶ。この映画では男女二人が一つのフレームに収まると、恋愛にまつわる関係にしかならない。まあハマリューはトレンディドラマ好きだから仕方ないんだろうが(https://www.1101.com/OL/2008-05-28.html)。「みんな片想いにすると、映画っておもしろくなるなって。「ハチクロ」みたい?」
『群像』’22年10月号の永井玲衣と三木那由他の対談が好きで。「率直に語るとか、あえて問うとか、思ったことを言うとか、そういうものが哲学の場では大事にされ過ぎている気がするんですよね。」「率直さ、思ったことを何でも語れることが大事だというのはわかるんですけど、思ったとおりに言いやすい人と言いにくい人がいるじゃないですか。言いやすい人が、哲学だからと開き直ってガンガン言うと、言いにくい人はどんどん言えなくなる。「哲学だから言うけど」みたいなのは、すごく嫌ですよね。」事前の予想通り、本音ゲームには暴力性が内在してるわけだが、こういう暴力的なゲームをけしかけるのがあの男であるというのはとても納得がいく。だが結局そのシーンが一番躍動するのはシーン終わりの風呂場でのアクション。アクションで映画が面白くなるあたりが、映画への郷愁みたいなことなのかもしれないが。だから『親密さ』のラストもアクションで締めてたわけで。だけど『親密さ』は演劇終盤の手紙朗読が一番好きな自分としては、アクションで締める古典的な面白さじゃないところの勝負が見たかった。それを見つけるのはフィルモグラフィ的にもうちょっと後なのだろうか……とも思ったが、その萌芽は朝の工場シーンなのか。その延長線上に『親密さ』の夜明け長回しがある?
濱口竜介ってずっと同じことをやろうとしてる人で、それって大丈夫なことなんだ、それでいいんだって肯定された気がした。でもPASSIONは漫画すぎるんだよな。これって漫画でいいんじゃない?わたしはそのメディアを選ぶ必然性を何より大切にしたい。

===
関係ないけど最近周りに賢い人が多くて悩んでる、悩んでるというほどでもないんだけど、なんか、悲しくなる。賢い人にとって私って何でしょう。
濱口竜介監督作品。

男女6人の群像劇。
濱口監督の実験精神と思想が伝わってくる面白い作品でした。

濱口監督の実験精神とは、ジョン・カサヴェテスを意識した画作りである。
序盤の6人の思惑が交錯する会食のシーンで、戸惑いの表情をクロースアップした各々の顔の短いショットで繋ぐのは『フェイシズ』であるし、男3人が都会で戯れる様は『ハズバンズ』である。そして照明がなんと言ってもカサヴェテスなのである。会食のパーティー会場には、均等に電球が配置されているし、部屋のシーンでは間接照明だけで光を表現している。これにより空間に光が均質に行き渡り、自由なカメラワークを可能にしている。また暗闇で光るフリスビーを投げるシーンも印象的である。

思想については、「暴力」と「真の言葉」である。
「暴力」は、先生でもある果歩が教室で生徒に話すシーンで示唆的である。このクラスには自殺でなくなった生徒がいる。そこから話は抽象的な暴力の話になっていく。曰く、「私が他人に暴力を振るう」とはどういうことか。暴力には二つある。それは精神と肉体の暴力ではなく、外からと内からの暴力である。外からの暴力は防ぎようがない。なぜなら他人の暴力を行う意志を変えることはできないからだ。では暴力をなくすにはどうしたらいいか。内からの暴力は防ぐことができる。私の暴力は、自らの意志で止めることができるからだ。外からの暴力は、赦せばいい。例え暴力を振るわれてもただただ赦せばよいと。

私は端的にこの暴力論は偽だと思うし、濱口監督も意図的に偽の語りを行っていると思う。それは自殺した生徒に暴力を振るったのは教室にいた全員という奇妙な展開へ向かうことと、本作でも言及がある通り、「私は他人になって、他人が私になる」ことは常に既にあるからだ。前者の展開になるにあたって、果歩は生徒を抽象的な議論に巻き込むほど奇妙な存在なのだから戸惑いの表情を浮かべるのはおかしい。後者のように私と他人は不可分に二分されているわけではなく、有機的に生成されるから、外からの暴力を赦せば解決するという単純な話ではないのである。
だが偽の語りによって、逆説的に「暴力とは何か」の真に迫っているようにも感じるのである。

それとは対照的に「真の言葉」がある。それは智也と貴子とタケシで本音でしか質問と回答ができないゲームで示唆的だ。このゲームによって、智也は貴子に好意を寄せていること、タケシは智也のことが嫌いであることなどが打ち明けられる。これはゲームのはずである。しかし彼らから発せられた言葉は真実味を帯びているのである。そして彼らの関係はゲーム前の友人関係には戻れない。交互に質問と回答を繰り返す様はまさに「私は他人になって、他人が私になる」ことであり、主体は常に生成し変化し、それにより関係もいやおうなしに変化してしまう。これもまた「暴力」と言えよう。「暴力」からしか「真の言葉」は現れないのかもしれない。そして愛もまた。智也の「優しさ」は貴子に届かず、タケシの暴力は貴子との愛に結び付くように。

果歩は智也が帰ってこない夜を健一郎と散歩して明かす。健一郎は果歩のことが好きである。だから夜明けの海岸沿いで愛の言葉を優しく果歩に囁く。しかしそれは「暴力」ではない。故に果歩の心に触れることはできない。

果歩と智也は婚約をしていたはずなのに別れの決断にいたる。それもそのはずだ。果歩と智也は上述のような出来事によって変わってしまったからだ。かつての二人の関係ではいられない。智也は部屋を出ていく。しかし。智也は戻ってくる。関係のやり直しを果歩に求める。かつての二人には「暴力」はなかった。それぞれの思いに見て見ぬふりをして偽の関係でしかなかった。「暴力」はよくない。できれば避けたいことだ。けれど別の仕方で「暴力を行使し赦し合うこと」だけが「真の言葉」に迫り、よりよい「私たち」の「関係」に向かうのではないだろうか。その運動が「PASSION」だ。

蛇足1
夜明けの海岸沿いにある煙突から吹き上げる煙がとても美しいのは、絶えず生成し変化していく「私」の象徴的な表現でもあるからだろう。

蛇足2
死んでしまった猫のために穴を掘り墓を建て哀悼することは自殺してしまった生徒のために花を手向け追悼することとイメージを反復させながら描かれている。「哀悼」とは何か。おそらく重要なことが描かれているはずだが、考察が及ばない。
ありそうで無いような、もしかしたらある話。
人は自分に好意を向ける人には興味を抱かず、振り向いてくれないひとにこそ惹かれるなどとよくいうが、まさにそういった作品だった。若者たちが対話を通して他者と自己、憧れと幸せを模索していく。
ラストシーンの構図、そして展開の美しさは見事だった。
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