すおう

ダンサー・イン・ザ・ダークのすおうのネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

2023/9/20 横浜シネマリンにて鑑賞。
あのトリアー監督のダウナー系映画だというから、緊張しながら観た。
セルマがなにかするたびに、「良くないことが起こるんじゃないか?」とビクビクしっぱなし。
心臓に悪い。
いざ殺人が起こった後は、かえって安心して観ることができた(笑)

さて、撮影技法等の技術的なことについては詳しくないので、物語の面からレビューをしてみたい。
外観的なストーリーラインに反して、母の愛を語った映画でないことは、すでに監督自身がインタビューで述べている。
そもそも母性愛の映画とか、トリアー監督らしくもない。
では、このギリシア悲劇的な受難劇はなにを語っているのだろう?

物語の舞台は1960年代のアメリカ。
当時は冷戦のいちばん激しい頃で、セルマの母国チェコは共産主義陣営である。
セルマはチェコ流の富の分配は素晴らしいと思いながらも、息子に失明を防ぐ手術を受けさせるために、アメリカに移民して工場で働いている。
セルマ自身は、すでにほぼ目が見えていない。
彼女の生き甲斐はミュージカルであり、作中にもミュージカルシーンが多い。
ミュージカルシーンは美しく、映画の要でもあるのだが、トリアー監督は辛辣な作風で知られる人である。
音楽を心の糧に厳しい試練に耐え抜く話、などと単純に考えないほうが良さそうだ。
「盲目的」と言う言葉があるように、目が見えないことは、しばしば愚かさの隠喩として用いられる。
世界各国の言語を知悉しているわけではないので断言できないが、多くの文化圏でこれは共通しているのではないだろうか。
この発想をもとに、物語の骨子を次のように置き換えてみよう。

セルマは学歴もなく、愚かである。
息子に同じような生き方はさせたくない。
アメリカで息子には充分な教育を受けさせたいが、それにはお金が必要。
アメリカではお金が稼げるが、人の金を狙うハイエナもいる。
(ビルが裕福になったのは遺産相続によるものである、という点に注意)
息子の進学も間近で、セルマは急いでお金を用意しなければならない。

このように置き換えると、物語の印象はずいぶん変わってくるはずである。
根本は同じはずなのに。
共産主義国の良いところの1つには、社会福祉が充実していることが挙げられる。
今でも旧東側諸国では、貧困層を中心に過去の体制を懐かしむ声が根強い。
(ちなみに、トリアー監督は社会福祉が発達した北欧の人である)
セルマ親子は、チェコであれば、失明しても生きやすかったのではないだろうか。
だが、セルマはそれで良しとはせず、あえて資本主義国に飛び込んだ。
そして、悲劇が起こったのである。
セルマは賢い人物ではないが、善人であり、働き者だ。
共産主義国では理想的な人物像と言えるが、資本主義国ではワリを食いやすいタイプと言える。
彼女はミュージカルを愛していて、それを心の支えに恐怖を乗り越え、息子に手術を受けさせることを実現するが、実のところ、これはただの逃避ではなかったのか。
「パンとサーカス」という言葉もある。
楽しい娯楽は、時に人が現実に直面することを妨げるものだ。
そう考えると、一見美しいミュージカルシーンが持つ意味は、ずいぶんと変わってくるのではないか。
トリアー監督から観客に向けた皮肉にさえ思える。

この作品がつくられた当時は、旧東側諸国の体制崩壊が始まってから、まだ10年ほどしかたっていない。
セルマのたどった厳しい道のりは、なにを暗示していだのだろうか。
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