映画大好きそーやさん

仮面/ペルソナの映画大好きそーやさんのネタバレレビュー・内容・結末

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

〈2024/4/9加筆修正〉
後世の映画監督に多大な影響を与えた、イングマール・ベルイマンの伝説的1本。
大変お待たせ致しました。
本レビューはインフルエンザA型で苦しむ前からずっと書こう書こうと思っていたのですが、なかなか筆が進まず4月に入ったタイミングでようやく形にする決意を固めたものとなります。
はっきり言いましょう。1度観ただけではすべてを把握することはできず、予想や妄想が多くなってしまうことをお許し下さい。
感想を書く、文字に起こすという作業が映画を鑑賞する上で最も大切な事だと自負しておりますので、今できる最大限の解釈を書き残しておこうと思った次第です。
また、本レビューに取り掛かるに当たって、ネット上の意見も幾つか拝読させて頂きました。
様々な角度からの言及がなされ、どれにも一定の説得力があり、自分がどう思ったのかが濁りに濁りました。
その上で結論から申し上げますと、本作は「人の本質」を映画的アプローチによって作品に昇華させた1本だと解釈しました。
私のレビューにおいては頻出の言葉のようにも思えますが、一旦何も言わず飲み込んで頂けるとありがたいです。
本作は、失語症を患ったエリザベートが、看護婦のアルマと共に、療養のため海辺の別荘で暮らす様子が描かれていきます。
何も言葉を発せないエリザベートに対して、アルマは饒舌に自分のことを話し続け、傍から見れば恥ずかしいようなことも惜しげもなく明かしてしまいます。
2人は素の自分と他者に対する自分という、人の二面性を克明に描き出すキャラクターであり、後半2人が記憶を共有し、1人としてエリザベートの夫と対峙する描写から、『ファイト・クラブ』を始めとする二重(多重)人格、知り得ない自我をテーマとした作品群の走りであったことがわかります。
正直、後半の展開は観客を置いていくものとなっていて、解釈のハマり具合によって多分に評価が変わってくると思います。
私個人としては、初見時こそ困惑したものの、鑑賞後噛み砕く時間を設けた上で諸々の解説を読んで、現状はこうとしか読めないかなという考えに至りました。
観客を置いていく要素は何も終盤だけでなく、冒頭のOPシークエンスにおける奇怪なモンタージュもその例に即しています。
この段階では先への期待を煽り、このカットにはどんな意味があるのだろうと、1カット1カット止めながら観させて頂きました。
それらは物語とも有機的につながっているように思え、意味深に数字や英語(Z)を映す映写機、空から落ちてきている女の子が何かの作用で止まり、再び動き出すアニメーション、手話らしき手のカット、2人の男(?)に驚かされ、ベッドに潜り込む男、俯瞰で撮られたクモ、何らかの動物の血抜きと解体、手に釘を打ち付けられ血が溢れ出る様子(キリストの磔のようにも思える)、無骨な壁面、近くに林があり、柵で囲まれた施設(雪も積もっている)、顎のアップ、お婆さんが横たわる姿、切り替わって少年が横たわる姿と、幾つものモチーフが明示されていきます。
断続的なカットが続いていましたが、ここからは長めの映像も挿入されていくことになります。メモを頼りに書き出していきますので、もう少しお付き合い下さい!
少年の姿が映し出されてから、ベッドから力なく手が垂らされているカットを経由し、また先ほど観たお婆さんのカットに戻ります。
お婆さんの次はお爺さんも画面に登場し、先ほどの顎のアップがお婆さんのものではなかった可能性も浮上してきます。
お腹辺りで手が重ねられ、足は布団からはみ出し、片方はベッドから飛び出しています。
そしてお婆さんの顔だけが切り取られて、画面いっぱいにお婆さんの顔となります。
そのお婆さんがいきなり目を開けたところで、また少年を捉えたカットへと切り替わります。
少年が鑑賞している私たちの方に視線を向け、布団を被って隠れようとしますが、頭まで布団を被ったことで今度は足が布団から出てしまいます。
足が出ていることを確認し、足を布団の中へと収めようとし、また布団に包まろうとするも、やはり足が布団の外に出てしまうのです。
少年は起き上がり、虚無な表情を見せ、辺りをゆっくり見渡します。
そして、眼鏡をかけ、ベッドの上で本を開きます。
本を開いた瞬間、不穏な音が響き始め、少年は思わず起き上がります。
唐突に画面に向かって左右に手を動かして、少年の背後に置かれたカメラと切り替わることで、少年が女性の顔に向かって手を伸ばしていたことがわかります。
少年がいくら手を動かしても、女性の顔には届いているように見えず、剰え女性の顔はボヤけてしまいます。
目、口、鼻と愛おしげに動かす手にどこか哀愁や空虚感を覚えつつ、輪郭がハッキリしたり、ボヤけたりする様を少年とともに観ることとなります。
いつの間にか目を閉じた女性、少年の顔が瞬時に移り変わり、そこで『PERSONA』のタイトルバックが入ります。
そこからは制作陣の名前とイメージカットが交互に挿入されていき、どこかの通りで燃えている人、イングマール・ベルイマンの名前、少年の顔、ビビ・アンデショーンの名前、女性器らしき何か、リヴ・ウルマンの名前、少年の顔、マルガレータ・クルークの名前、静かな海、グンナール・ビヨルンストランドの名前、エリザベートの顔、スヴェン・ニクヴィストの名前、二手に分かれた木の間に曲がった木が見えるカット、アンダース・ボディンとラース・ジョンソンの名前、少年の顔、ビビ・リンドストロームの名前、アルマの顔、ベルジェ・ルンドとティナ・ヨハンソンの名前、少年の顔、マゴとエイバー・クルバーグの名前、海の俯瞰ショット(木や岩、抜け毛や動物の皮膚のどアップにも見える)、ウラ・ライゲの名前、少年の顔、ラーシュ・ヨハン・ワーレの名前、険しいエリザベートの顔、ペル・オロフ・ペッターソンとレナルト・エングホルムの名前、少年の顔、オーレ・ヤコブソンとエヴァルド・アンダーソンの名前、岩肌の覗く海岸、ボー・ビベニウスとカール・アルネ・ベルイマンの名前、少年の顔、ラース・オウェ・カールバーグの名前、エリザベートかアルマの判別がつかない女性の顔、ケルスティン・ベルクとレン・ヒョルツベルクの名前、少年の顔、フィルム・テクニック、AGA、LIUDの名前、警察に追われる男たち、SFスタジオの名前が表示されるまで一気に駆け抜けていきます。
そうして、ここまでが有名なOPシークエンスとして多くの人に語り継がれています。
書き始めて本当に後悔しました。あまりにも余白が広く、尋常ではない作業量を要求されました。
恐らくですが、私の書いたレビューの中で最長のものとなっていることでしょう。
こんなに長々と書いたにも関わらず、前提でしかないというのが、空を仰ぎたくなる要因ですね。
さて、全部をつなげていくことは難しいですが、それぞれを紐解いていく中で私の解釈の強度を高めていきたいと思います。
節々でネット上に転がっている解釈と似てくる(もしくはほぼ変わらない)受け取り方があると思いますが、パクった訳ではなく様々なことを考慮した上でその解釈を選んだのだとお考え下さい。
それでは、いよいよ本題に入っていきます。
まず本作は二重(多重)人格、隠された自我もテーマではありますが、映画に対する映画という側面も持ち合わせています。
それも俳優に寄ったもので、演じることについての追求が、エリザベートとアルマの関わりによってなされていきます。
その延長線上に位置する描写こそ、モンタージュ冒頭の映写機、そして空から落ちてきている女の子のアニメーションであると考えています。
女の子が数秒間止まったのは昔のフィルム上映における不具合、映画あるあるとしての側面を映像的に示したのかなと解釈しました。
次のベッドに潜り込む男は、サイレントの時代におけるコメディ映画、当時としての映画の歴史について触れた描写のように見えました。
古典的な笑わせ方、今にも通じる映画の面白さを再確認させる意味合いを、そのカットからは感じられたような気がしました。
クモはそもそもモチーフとしてよく使われ、巧妙な策略や狡猾さ、幸運、運命、母性といった意味の他に、キリスト教、聖書における神の保護といった内容も示唆します。
『メッセージ』や『DUNE/ドゥーン 砂の惑星』でお馴染みのドゥニ・ヴィルヌーヴは、母性の象徴としてクモを使っていたことがありました。
本作で考えてみますと、その後に挿し込まれるカット含め、運命だと辻褄が合うように思います。
どんどんいきましょう。次なるカットは、動物の血抜きと解体でしたが、それらの工程の意味は料理の前処理です。
身の劣化や生臭さ、うっ血を防ぎ、美味しく食べられるようにするのです。
これには純粋に同一人物然とした2人が混ざり合い、境界を見失って1つになることをイメージカットとして先んじて見せたのだと考えました。
劣化なく新鮮な状態で、2人は完全な2人として1つとなる。書いていて混乱を来す内容ですが、そうでしかないように思えてなりません。
続いて、磔に見えるカットはアルマ(或いはエリザベート)の犯した罪の象徴を、キリストに重ねたのではと解釈しました。
嘘を吐き、仮面を被って人と接し、本当の自分が分からなくなる。語っても、それをネタにされても、満たされず手を振るってしまう。お互いがお互いに、周囲に対して犯した罪が、自分に対して許せない罪が、やがて共同生活の中でどうなっていくのか。その過程を描くことを、端的に表した内容であると考えた次第です。
これ以降のカットは理路整然とした流れがあるため、テンポを上げて考察していきます。
外から内へ、屋敷の内部へと入っていく描写が編集によって気持ちよくつながっていく中で、アルマがエリザベートへと接近していくこともこの流れには重ねられている気がします。
お婆さん、少年、お爺さんと次々に画面に映されていきますが、彼らに共通しているのは布団がすべてを隠す仮面になっていないことだと思います。
隠したと思っても足が出ていて、今度は重点的に足を隠そうとしても上半身が布団の外に出てしまいます。
なんなら、布団の外に出るだけでなくベッドの上からもはみ出して、不安定な状態を余儀なくされていることが見て取れます。
自分を生きれていないメタファーなのかもしれませんし、少年とお婆さん、お爺さんという年齢に幅があることに大きな意味があるのかもしれません。
幅を作ったことで、子どもだけでなく、大人にも関係のある内容だと示していることも考えられます。
そして、唐突なお婆さんの開眼に合わせてカットが切り替わり、少年にバトンが渡されます。
これはお婆さん(お爺さん)、そして少年の目覚めを意味し、この作品の着地点を示しているのではないかと考察してみました。
本作のラストは海辺の別荘での生活が終了し、お互いがお互いの人生に戻っていきます。
1度は融合し、1つとなった2人も、最後には自分を生きることができるようになったのです。
ただ本作が一筋縄でいかないのは、その後OPで展開されたモンタージュの中にあった女性の顔に手を伸ばす少年のカットが挟まれた後、映写機に掛けられていたフィルムが外れて焼き切れてしまうという描写が入っていることです。
これは映画の強制的な終わり、終わらせなければならない理由が立ち上がり、神(制作陣)の手によって終わらされたのだと考えられます。
個人の見解としては、最終的に2人が辿り着いた結論は映画のプロット的には異なっていて、強制的な終了となってしまった(観客目線ではハッピーエンドに至った)ということのように感じました。
この点は他の方の意見もお聞きしたいですね。
なかなか本作のレビューを読んでも、具体的な言及をしていない人が多く、意見交換ができない印象があります。
もしフィルムが擦り切れるほど本作を観て、自分の解釈があるよという方がおりましたら、コメントして頂きたいです。(もちろん何回も観ていなくとも、考えをお持ちでしたらお声がけ下さい!)
さて、話を戻しまして、お次は不穏な音とともに起き上がった少年が女性の顔に手を伸ばすシークエンスとなりますが、これは上位存在(映画、或いはその制作陣)の匂わせと、上位存在によってプロデュースされた演技する(仮面を付けた)女性には手が届かず、それどころか輪郭がボヤけ、誰が誰だかわからなくなってしまうという、映画に対する映画の側面と、人の二面生、二重(多重)人格、隠された自我のテーマ性をつなげる描写だったのではないかと考えています。
人によって態度を変え、声音を変え、自分の見え方を調節する。人としては至って普通の行為を、より映画的なアプローチによって印象的なシークエンスに昇華させる手腕は、流石だなと言わざるを得ませんでした。
余談ですが、このシークエンスは近年でもデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』に使われていた記憶があり、逆アハ体験のような感覚を味わうことができました。
そして、少年が手を伸ばす女性が目を閉じるという行動が最も大事な描写だと考えていて、先ほどのお婆さんの開眼の逆ということもありますが、制作陣の敷いたプロットに反逆(キリスト的行為)を起こし(アルマ(或いはエリザベート)との同化を拒否し)、自分の人生を歩もうとするというラストの展開を暗示しているように思いました。
タイトルバックの後は少年の顔を何度も出しながら、この後の物語の場所であったり、展開であったりを切り貼りして、ストレートな内容ではあれど象徴的な演出として成功していました。
この辺りでまとめに入らせて頂きます。
文字数換算で考えるととんでもないことになっていそうですが、私が考えたことはあらかた書けたかと思います。
長文に次ぐ長文を失礼致しました。
「人の本質」という言葉を最初の結論提示の際に用いましたが、モンタージュ解説においては全く使わなかったと思います。
これは内容が逸れた訳ではなく、このモンタージュ全部を含めて「人の本質」に肉薄していたと考えていることに起因します。
人の二面性、二重(多重)人格、隠された自我というテーマ性に関しては、何度か触れさせてもらいました。
本作には、映画に対する映画という側面もあると述べ、その上でその延長線上に演技すること、俳優という仮面を付けた職業があるということも示唆しました。
上記の2点は密接な関係にあり、表裏一体です。
また、この根幹を強固なものにするためにそれぞれのカット、象徴たるメタファーが散りばめられ、一見つながりが見えないモンタージュではありましたが、作品として成立していたと考えています。
直接的な言葉の言及こそしませんでいたが、そこに「人の本質」は確実に顔を見せ、私たちをその深淵まで連れて行ったのだと解釈しています。
ここまで読んだ上でもう1度読んでくれとは頼みませんが、今1度思い出してもらえると言わんとしていることは伝わると思います。
また、今後もベルイマン監督作のレビューを書いていくと思いますが、これほどの濃い内容で書くつもりはありません。
要点をまとめ、端的に書き、短いスパンで公開していけたらと思いますので、よろしくお願いします。
総じて、暴力的なまでの圧倒的なモンタージュに泡を吹きつつ、奥深くに眠る後世の監督たちにも継承されてきた強いテーマ性に酔いしれる作品でした!