まりぃくりすてぃ

フェイシズのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

フェイシズ(1968年製作の映画)
2.0
◆睡眠薬自殺について熟考する句集◆

「マイスリー百錠のんでも死ねないの?」
「死にたけりゃ三千錠が要るんだと?」
「四週分・五十六錠まで処方?」
「……三千錠手に入れるまで四年半」
(季語/錠→嬢→坊→夏目漱石→夏)

以下、オマケ(めんどいから季語なし)
「四年半あれば人生リスタート」
「リスタートしても不幸は待っている」
「どうすれば誰もがみんな幸せに?」
「カンタンよ 宇宙が滅べば不幸なし」
「淋しいよ いくら何でも滅亡は……」
「イヤならば つべこべ言わずにガンバリナ!」


◆お待たせ。映画の感想だ◆

OPの数分間で終わったとしても一篇のショートフィルムとして通用しそう。。。な上々な始まり方だった。
(褒め終了。)

全体、退屈。
非力なウンチな物語(や半端なキャスティングや演技姿勢のばらつき)を撮影者の仕事量で補おうとしても、「キャメラを被写体にどう向けるか」の参考にしかならないよ。
顔アップが多くてね、、、、結局、何をごまかすために?
役者たちがどいつもこいつもギャーギャーギャーギャー耳障りで耳障りな喋り方。そいつらの一人が喋り終わって「はい、セリフいったん終わった」とばかりにレンズに大顔を預けても、魅力なくて醜いばかり。
そんなウンチ映画の中で、“つらい妻” 役のリン・カーリンだけは、澄んだ私のロックでロール(でついでにソウル)な瞳にとって見飽きなかった。役柄上そうなったせいなのか知らないが、だいたいにおいて彼女は静かで、その静けさこそが(表情・無表情・仕草・姿全体を伴って)多弁にいろいろ醸し出してくれていた。これが映画だ。
計算づくで妻をそういうふうに際立たせたの? フッ、、、 いったい、ほかの役たちをあれほどまでギャーギャーな発声にばかり走らせる計算、正しいわけないじゃん。何の数学(≒論理学)にもなってないよ。がなりたてる者はみんなポリープにでもなっちゃえ。
てわけで、このリン・カーリンだけが本作の中で(少なくとも “真っ先に”)高評価されてしかるべきなのに、ベネチアかどこかで「監督賞」と「男優賞」? は??? 1968年当時の審査員たちはなぜそこまで頭蓋骨内がウンチだったんだろうか。べつにロンウッドらのフェイセズとつなげた言葉遊びじゃないけどさ、68年ってったら、回転石のあのベガーズバンケットの年じゃん? 同じ頃によくもまあメチャクチャな。。。 他ジャンルに対してあまりにも恥ずかしすぎる。
べつに、ロックとロール(とついでにソウル)が常に映画文化よりも偉い、とか云いたいんじゃない。一番素朴な結論として宇宙最高の正論を記しておく。
────『悪魔のいけにえ』で充分。
『悪魔のいけにえ』のほんの数分で充分。本作を二時間かけて観るよりも有意義。
銀河系最高傑作映画『悪魔のいけにえ』よ永遠に!! そういうこと。似てる作品だよね、って気づくセンスがある人には、私からエア・マイスリーを一粒プレゼント。


◆最オマケ PARCO一階にて◆
「キラキラなベリーのバウムクーヘンだ♡」
(季語/なベ→フライパン→ここんとこ毎日ゴーヤー炒めてる→まだまだ夏だね)